日本にあって、アメリカに無いもののひとつに「親子心中」「一家心中」と呼ばれる家族総員の自殺がある。
自殺はもちろんある。しかし自殺と心中には本質的な相違がある。自分の生命を自分で絶つ事の行いの善し悪しの問題は、ここではさて置いて、肉親とはいえ自分以外の人の生命を奪うと言う行為が加わるとなると、これは加害者の心理となる訳であるから「人の生命を害する」行いを正当化する感情、或は論理が無ければ、とても実行できるものではない。日本人にはそういう論理或いはそれに準じた思想がある次第である。
西洋の社会にはそれがない。英語にダブル
スーサイド(double
suicide)と言う言葉がある。
二人の人間が、時と場を同じくして、それぞれが、自らの意思と自らの手をもって、自らの生命を絶つ行為で、ひとりが他方を助けて、其の死を介添えした形跡の有った場合には、この表現を使わない。
日本人が使う「心中」と言う言葉は自殺と他殺を区別する事にかけては、英語ほど厳格ではなく、双方とも納得ずくの死ならば、例え刺し違えての致死であっても、合意の上の自殺と解釈して、殺人の言葉を使う事はない。
シエクスピアの「ロミオとジュリエット」の悲劇は、日本でも明治時代から紹介されて知られているが、ジュリエットの死が計画された演出だったのを知らなかったロミオが、ジュリエットが本当に死んだのだと誤解して、自らの生命を絶つ。仮死から覚醒したジュリエットはロミオが傍らに死んでいるのを知って、(あらためてと言っては可笑しいが)ロミオの剣をもって、自分の生命を絶つ。偶然が重なり合い、話は少し込み入ってはいるが、西洋ではこれがダブル
スウサイドである。日本人なら説明付で「心中」のカテゴリーに入れるだろう。
日本では「心中」と「無理心中」の区別をして、自殺を自主的に実行できないものを、他が扶助して死に到らせた場合を「無理心中」と言う。アメリカではこれをマーダー
スウサイド(murder
suicide ) と呼ぶ。ダブル
スウサイドではないのである。
これは全く偶然だったが、この章を清書し始めた時、ぼくが現在教えている大学の寮で、マーダー
スウサイド(殺人即到自殺)の実例とも言うべき事件が起こった。
正直に言って、ぼくは少々困った。この章でぼくが書きたかったのは、親子心中の育たぬ(と、云って良いのか分からないが)アメリカの社会に、其の代償として、殺人即到自殺の行為があることを紹介する事ではなく、親子心中のもつ特異性を考え、なぜ、日本人にそういう行為を行なわさせる感覚が養われているのかと言う問題を提供して、考えてみたかったからである。
しかし偶然とは云え、この種の事件が、こうも身近に起こってしまったのでは、無視するのも不自然すぎて、出来ない。少し手を広げすぎて収拾の付かない事になってしまうかもしれないが、とにかく、この話から書き始めてみよう。
ぼくの大学のドミトリー(寄宿舎)
に、キャスリン
コープランド(21歳)
と言う、映画科専攻の女子学生が住んでいた。1994年の事である。南カルフォニア出身の彼女には、ベンチュウラ市で知り合った、エリック
ジョーウンズ(22歳)
と言う、かってのボーイ
フレンドがいたが、春学期の始まって間も無いある夜、キャスリンの個室を尋ねてきた彼が、隠して持ってきた9mmの拳銃でまず彼女を射殺、同じ凶器で、自らをも撃ち死んだ。
犯行の目撃者はいなかったが、突然、発砲された四発の銃声で、六階建てビルの寮は大騒ぎとなり、管轄のホモサイド(殺人課)の職員が同個室の合鍵を使って、ドアを開けて入室した所、重なり合って横たわった二人の死骸を発見したと言う。
担当した検察官が新聞記者会見を行った際、「犯罪学の古い教科書の定例に有るような、典型的な失恋の果ての犯行、、、」と、表現していたが、確かにこの種のマーダー
スウイサイドの事件はアメリカでは日常茶飯事である。
地元のプロ野球のチームが勝ったぐらいの事が一面記事扱いになる、サンフランシスコ
クロニクルと言う日刊新聞すら地方版でしか報道しなかったのをみても分かる。
さすがに、大学の自治会が、週二回発行する学内新聞ではトップ扱いで、二週間に渡って、二人の関係を、肉親や、友人達の談話にして掲載した。
其れによると、二人はこの大学に来るまでは、親しく交際、恋人同士の関係だった事も有ったらしいが、女性の方が、サンフランシスコに来てから、仲が疎遠になり、男性の方は其れが不満で彼女の後を追って、新学期の始まりを機会にこの大学に編入、彼女の寮から、テニス
コート場をひとつ隔てた別棟の寮に住み込んでいたと言う。
彼は唯大学に籍を置くと言うだけで、クラスを選択して登録する事もせず、彼女の寮にせっせと通いつめ、和解の説得一筋に努めていたらしい。生憎、彼女に関する限り、交際は終わっており、親密な男女関係を継続する意思はなくなってしまっていたらしく、エリック君はついにせっぱ詰まって前記の犯行に及んだ次第だった。
肉親や友人達の談話を読み、彼の顔写真を見た限りでは、エリック
ジョーンズと言う学生は、柔和で、優しい人柄で知られていたらしく、殺人の出来る性格とはとても思われなかった。
この大学はカリフォルニア州立の官立大学で、大学構内における、火器、凶器の所持は校則で厳しく禁じられている。この国では得に最近になって、殺人が起こると、すぐ使われた凶器のせいにすると言う、社会問題云々の習慣が有り、この事件の場合も、エリック君が所持していた拳銃の出所が問題になり、彼が其れを所持していたのを、何故、事前に察知出来なかったのかと言う事が問題になった。
なるほど、拳銃は刃物や素手とは違い、簡単に「凶器」の役割を果たす。しかし、ぼくが考えるには、仮に彼が拳銃を持っていなかったとしても、そこまで、追いつめられて、精神的に絶望感をうけていたのだから、キヤスリン君を殺害する必要が有ったのであれば、何も拳銃が無くとも、他にもいくらでも手段は有ったと思う。
殺人の罪が銃に有る事は確かに其のとうりであるが、銃は自発的に発火する訳ではない。ぼくが今問題にしたいのは、彼をして、銃の引き金を引かせた、精神的な動機が、いかにして彼の「意識」の中に、芽生えたのかと言う事情を考える次第で、「拳銃」の問題とは次元の違いがある。「拳銃」の問題は、あらためて、あとで、いまいちどとりあげさせてもらうつもりである。
アメリカには人を殺害する行いを、正当化すると言う、歴史的な背景。一種の社会的習慣と言うか、「タテマエ」がある。例えば、他人を殺害すると言う行いが、自己防衛の為であった場合がそれであり、其れが出来ないものは「個人」としての適任を疑われると言う極端な歴史すら持っている。
刑事学的には日本にも同様な条例が有り、自己防衛の証明が出来れば、殺人ではあっても、情状酌量されるが、其れはあくまでも「刑法」の条例であって、日本生活に於ける「世間」を納得させるには、今一つ説得力に欠ける所がある。日本人には別な重要な理由が無ければならない。
それは、殺された人の人格である。
日本で殺人が(刑事学的ではなく、一般の家庭で)許されるのは、殺害された被害者が、「人」でなかったと判断された時である。もちろん被害者が、犬、畜生だったと言う事ではなく、日本人の規定する「人」の範疇に入らなかったもであった場合を意味する。
「ひとでなし」と言う言葉がある。「人」の規定に入らないと判定されたものの事である。
「あいつは、ひとでなしだったのだから、あんな殺され方をされても、仕方が無い」
「あんな、人でなしは殺された方が良い」と言う表現が良く使われる次第である。
男女の交際が拗れて、一方が他方を殺害し、自らも死んでいくと言う行いは日本にもある。あることは有るが、失恋を苦にしての自殺は、日本の場合、ひとりで死んでいくものではないだろうか。
何故ならば、日本では「他殺」は前述の通り、其の行いのみだけでは正当化し難い行為であるが、「自殺」の方は西洋とは異なり、「世間」は寛容であるからである。
失恋したものが、失恋の対象であった相手に危害を加えるのは、日本人の「作法」に反する。危害を加えられるべきものは「ひとでなし」でなければならないのだ。
もし此れが、相思相愛の恋人同士の間の事であれば、話は少し違ってくる。其の場合は、例え一方が他方を殺しても、加害者は殺人者とは解釈されず、「無理心中」と呼ばれ「他殺」の方も正当化される。
そういう事情のある日本では、自殺を思いつめているものが、世間の目を気にすると言う心理的な葛藤をする段階で、自殺する事によって、其処まで追い込んだ相手に肉体的な危害を加えなくとも、精神的に制裁できると言う「救い」とも云うべき計算の出来る背景が有る。相手に危害を加えて敢えて「世間」の批判を買う事をしないと言う、分別(?)が出来ているのだ。
これは恋愛関係ばかりに関わらず、加害者に心理的な報復を加えると言う動機が自殺するものの心の中に有る訳で、冗談を装って、「あんたも殺生な人だ。あんたの家の軒下で首括って、死んでやるで」と言う、脅かし方だって有る訳である。
人の心に規定がある日本の国では傷心ゆえの自殺であれば世間の同情を引き起こす事が出来る。そういう人情に全く無理解な西洋人の世界では、死んでいくものは全く無駄死になのであるから、「死」を選ぶに当たっては本質的に体系の違う動機が無ければならない。
ジュウデオ
クリスチアン
モスレムの西洋では、其の訓戒に則って、自殺は神に対する「罪」ある行為として解釈されるから、日本の様に「世間」の同情は愚か、法的にも特典を期待する事は出来ない。
自殺者の取り扱いは非情だし、自殺未遂者は犯罪者扱いにされ、規則によって、精神異常者用病棟に強制収容される。
日本でも法的には同様にとりあつかわれるかもしれないが。しかし、一般の日常生活では、自殺の行為を正当化する為の作法であり、其れを規定し、裁可するのは「人」、すなはち「世間」であり、「社会」なのであると言う考え方をする。
「世間が怖い」「世間を気にする」「そんな事では世間はとうらないよ」と、云う表現は、日本に住む日本人である限り、毎日の様に聞かされるのだ。
第三章で取り上げた日本人の「人」の規定に反する行いをしたとする。その時は「世間の事は気にしない」「この際世間の問題はさて置いて」と言ってわが道を行くと言う生き方がある。日本人はこの表現を使用する事によって、事情を「特殊」「例外」の範疇に入れる。すなはち「人」の規定を破ったものが其の許しを請うに当たって、日本人の作法を破らざるを得なかった事情を正当化できることである。
だから、「自殺」は作法に則って要る限り、其の行為を正当化できる。過去において、個人、集団に関わらず、自殺の行いが美化された事実さえある次第である。
少し古い話になるが、日本では「仇討」ならば、殺人の行為を正当化できた時代が有った。其れは丁度、アメリカのセルフ
デフェンスの為の殺人と同じく、其れが出来ないものに対しては、「世間」の批判が集中すると言う現象も有ったが、江戸時代末期、元禄年間には、既に法によって「仇討」は禁止されていた。だから、元禄十五年(西暦一七〇二年)に起こった、例の播州赤穂の四十七士の仇討ちは違法となり、全員有罪、死罪となった。ところが其の処刑が「切腹」と言う自殺の「形」であった為、日本の市井の歴史に残る事件として、記憶され、後々語り継がれる事になる。
エリック
ジョーンズのマーダー
スウサイドではエリック君も自殺している。果たして其れが殺人の方を帳消しに出来る役割をしただろうか。
「彼は何故、恋人を殺し、自殺しなければならなかったのか」と言う疑問は、価値、習慣の違いに関わらず、ジャーナリズム共通の問題意識であり、何処の国でも専門家の意見を参照する。前記の大学新聞「ゴールデン
ゲイター」も一九九四年三月十日付で、"motive
for death a mental labyrinth" と題して、当大学、心理学部のマーテン
ハインスタイン教授の感想を引用した。同教授によると、一般的にこの種の事件の加害者は、嫉妬心と所有欲の感情にとりつかれた結果の行動で、其の感情は、自尊心の欠如によって、起こるものであると言う。
つまり、自分の恋人を自分の所有物と解釈、仮に相手にその気が無くなってしまっていても、永久に自分のものとする為に、彼、我の生命を絶ってしまうと言う心境であるが、人のものを私物化する事を嫌がるアメリカ人の世界では、ひとを自分の物と解釈するものを生理的に嫌悪する。
ぼくはこう考える。エリック君の社会的背景には「自殺」して恋慕した相手を制裁できると言う感傷は一切期待できない。取も直さず、自殺は敗北者の行いなのである。だから「死んでいくには」キヤサリンを殺してからでなければ浮かばれないという心境であろう。ぼくが日本人だからそう判断するのである。西洋人の場合は「浮かばれない」と言う感傷をもたない。
一般にはexecution
(処刑)
と言う表現を使用するが此れがジュウデオ
クリスチャン
モスレムの云う(浮かばれるための)「制裁」の手段である。日本人の様に世間の批判に甘えて「世間に制裁して頂きましょう」とは考えないのである。
世間に甘えて生きていくと言う、消極的な日本人を叱咤、啓蒙してきた、日本人の思想家もいる。多くは西洋の行動的な人間観を経験してきた人たちであるが、青木範夫もその一人である。
青木範夫作の戯曲「冷暖」の主人公、宮本薫は学生時代に付き合った女性、小池雪子を殺害して、計画どうり本栖湖にて自殺を図るが、当局に知られて助けられ、裁判の結果、死刑になる。
青木範夫は「人の誠意」と言う心の働きを夏目漱石以上に尊重した作家である。人の誠意をもてあそぶ事、利用する事を心底から嫌い、怒った。宮本薫は同作家が経験的に設定した復讐の男である。作家は宮本薫の親友、実名で登場しているが、一見、日本人離れした宮本の「制裁」を客観的に見守ると言う立場を取っている。
青木
しかし、君が精一杯にやった事は分かるよ。話を聞いて、僕には納
得がいく。君のやった事が赦されることかどうかは、君と彼女の間の
問題で、僕達第三者の関係すべきではないと思うな。
(青木範夫作「黒い雪
冷暖」baoq
library P.139)
親友顔をして、伝統的な日本人の価値、観念を説いて、友人を戒めるような態度をしない所が作家の良心なのだが、日本人の精神生活には新鮮な人格である。
この章を、日本に有ってアメリカに無いもののひとつに「親子心中」「一家心中」と呼ばれる家族総員の自殺がある、と書き始めた。実は例外が有るのである。
一九七八年に起こったジム ジョーンズ他九百人のPeople's
Templeの信徒が集団自殺したのが其れであるが覚えていられるだろうか。
場所はベネズエラの国境に近いギアナで起こったものだが、ジョーンズもその信徒ももともとサン フランシスコから移住してきた人達だから、矢張りアメリカの事として取り扱うべきであろう。
九〇〇人余が一堂に会して死んでいくのはさすが日本でもちょっと例が無い程珍しい例であるが、
アメリカでこの種の事件が起きるの大抵、cults(カルツ)
或は宗教の団体が当局の圧迫を受けたり、或は自分達の信念を突き通すための意志表現みたいなもので最近の例では、南カルフォオルニァでのHeaven's
Gate またはテキサスのWaco
事件が有る。
アメリカに発生した 「親子心中」「一家心中」にも例外が無い訳ではない。しかし、其の例外が実は日本から移民してきた日本人の家族であったり、日系アメリカ人の雇用者であったり、日本人の古い思想が直接、間接的に影響されたような例で有る。
アメリカでは御存知のとうり、仮に加害者が自殺する積もりでも、肉親でも先に殺してしまえば殺人である。だから、親子心中の積もりでも、自殺が未遂に終わった場合が不憫である。ロングビーチのある日本人の母親が、子供二人を連れて入水して自分だけ助けられたという事件が有った。古い話だが日本でも報導された話しだし、生き残った母親の名誉のためにも、詳細をここで書くのは控えるが、幸か不幸か彼女は情状酌量されて無罪になった。幸か不幸かと断ったのは、死ぬ積もりであった母親が、手にかけた子供たちの跡を追いそびれて生きていかなければならない気持ちを思ってのことである。
日本人にだって、我が子の生命を我が手で取る事など、とても出来るものではない。其れを敢えてしなければならないのは其れをしなければ親としての責任が果たせないと信ずるからである。
西洋人の世界は良い。血と肉を分けた我が子であっても、ひとりの人間としての人格が認められるから、親の持ち物、或は所有品として、其の生命を勝手にとるのは犯罪として解釈する。自分の生命を始末するに当たって自分の肉親を連れ添いにしなくとも良い。
日本人の親は、子供は親のものと言う不文律に律しられているから、子供の生命の責任も全うするべきと心得ている。だから親子の間にプライバシーを確立しようとする西洋の人間関係が理解できない。日本人の対人関係では、他との間の垣根を取り除き、裸になった対話、あるいは付き合いするが取りも直さず肉親の付き合いの様に最も近しい関係なのであるから、プライバシーと言う空間は、此れを隔てる悪い行いであると考える。
第三章で西洋人の世界で、プライバシイが無視され、人のもの、俺のものがどんぶり勘定にされる例外として、教会、或は「神の前」に立つと言う、宗教的な環境を云々したが、他の生命を奪い、我が生命を絶ち、尚且つその行いが赦されることは意味深い。それが「殉教」といわれる行いなのである。
日本には、神道、仏教、キリスト教等の既成の宗教団体を包括する、日本人の「人」の信仰が実存している。日本国民全員が同じ屋根の下の礼拝堂に傅くのである。だから、国体が倒れるかもしれないと言うcrisis
(危機)が起これば、一億玉砕と言うジョージ タウンとなっても、不思議ではないのである。
昭和二十年八月二十二日、昭和天皇の「終戦直後」の放送を聞きながら「一億玉砕」の決心が崩壊していく瞬間を複雑な気持ちで経験したものならば、それがいかにありうることであるか、覚えておられるだろう。
プライバシーが無視され、彼我の財産の間に垣根を作ることが罪となる、ジュウデオ クリスチャン、モスレムの神の世界は、一旦、教会、或は「寺」を出てしまえば、そこは他宗を信仰する他人の世界なのである。
特にアメリカは(自己をアメリカ人と自認するものならば)その土地は、神の土地、神から与えられた土地だと解釈する。「自由」の土地なのであるから。その土地を我が手で開墾していくに当たって、若し他人が侵略してきた場合い、敢然と立ち向かいその侵略を防ぐ義務がある。他人と争うと言う行いは、正当化されるべき物なので、「銃」と言う殺人の武器を所有、我が財産を犯してくる外敵を、必要とあれば、殺害して、守る事を第一義にしなければならない次第である。生命の神聖を唱え、暴力への無抵抗を固持する態度はこの環境にあっては絶対に赦されない。「銃」を所持して自己防衛のためならば殺人も正当化されるアメリカの国民性は実はこういう段階を経て成長してきた。日本を一歩も出た事のない日本人の間で、「人の生命を」あれほど尊重するアメリカで、何故、殺人の為に「銃」の保持が赦されのかと疑問を呈し、批判する人がいる。実は「人命」を尊重するからこそ「銃」の所持が許されるのである。ようは「我」を犯しに侵入してくる者は人間として尊重される生命ではなく。単なる一個の「外敵」即ち我が神を蔑ろにするものであるから、日本人の言う「鬼畜」、文字どうりの「人でなし」と同じ感覚である。自己防衛の精神が強調されるあまり、それがやがて、青少年を暴力行為の促進に駆り立てるのは、なるほど行き過ぎであり、善導されるべき事態ではあるが所詮は人の行いである。人の心を規定して、それを当てにして生活をできない「場」があるということである。
日本からの無心な留学生、観光客達が、この暴力の被害者になっている昨今では有る。胸の痛む事件ばかりであるが、こればかりは、この国で独立して家族を養っていく経験をしたものでなければ、理解してもらえない。
開拓時代から確かに二世紀近くの年月は過ぎている。しかし、アメリカでは自分と自分の家族の生命並びに財産を守ると言う行いが一億玉砕の自殺の決心を固める日本人と同じく、困難な決意を持たなければならない。外敵を制裁する事を持って「善」とするアメリカ人の感覚は日本人には「矛盾」としてしか解釈できないだろうが、誰とて他人を殺したり、自分を殺したりすることをよろこぶものではない。問題は自分と自分の肉親を生存させることが第一義である国では他人を制裁する事で、身を守らなければならないのである。一方、彼らは自殺を否定する。キリスト教は我とわが身の生命を取って死ぬことは、神に対する犯罪、「罪」と解釈するは既に述べた。ここにも又、例外がある。自分の生命を絶っても、許される例外がある。それが殉教である。しかし、今ここで、殉教を扱うのは、しばらく控えよう。
又ぼくの母の話で恐縮だが、ぼくの息子が他人から好かれ、初対面の他人から可愛がられるのが気になると話したところ、何が気になるのか、わかってもらえなかった。さすがに、詳細に事情を話して分かってもらおうとする勇気もなく、その場はごまかしてしまったが、この国では、少、中学の子供たちは初対面の他人とは口も利かず、決して他人の誘いに乗らぬよう徹底的に訓練される。
自分の恋人、或は連れ添いを、日本人がどう解釈しているか考えてみよう。相互の「人間」性を信用しない、恋人や連れ添いがいるだろうか。ない。相手を信用せず、プライバシーの尊重を名目に、互いに隠し事をすればすれ程、家族としての縁は薄くなる。
一方、子供に他人を信用するなと教育するアメリカの現実では、仮に隣人とはいえ、「人間」性を無条件に信頼して、我が子の進退を任せるようなことはしない。隣人でも信用できない事を知ることが、「大人」の行いなのである。
一考を要する出来事がアメリカで興りつつある。子供が幼少の時、過って事故に合い、方輪になった。 親には偶々傷害保険があり、子供が成人になった時点で、我とわが身を「親の監督不行き届き」理由に、子供に両親を告訴させた件例である。此れは日本でもいつかは起こる問題である。なぜならば、そうする事で、自分の子供が莫大な障害保証金を保険会社から取得できるからである。