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沖縄の無形文化遺産、「カラテ」の 

ロゴス/パトス/トス考

山口 剛正

プロローグ: パラダイム・シフト

 

ぼくはカラテの指導員である。

サンフランシスコの州立大学で教えること、半世紀近くになる。当たり前の話だが、ぼくのクラスに登録してくる学生の母語は、ほとんどが英語であるから、授業は英語でしなければならない。時々、日本語をかたこと話す学生も入ってくるが、文字どうり、かたこと、朝晩の挨拶をもったいぶって反復する程度の会話ができるだけのことで、話が形而上学的になると、英語で話さなければわかってもらえない。もちろん、日本から留学してきた交換学生がいるから、日本語が通じるぼくのクラスを選択する日本人留学生が、時々いたが、その数は知れている。アメリカくんだりまできて、よりによって、「カラテ」を専攻することが、いかに、常軌を逸したことになることぐらい、当然なことでもある。だから、日本で黒帯を取得してきた学生が、規定された、体育の単位をまかなう為にぼくのクラスを頼ってくることがないかぎり、現実性のないことでもある。

当然、ぼくの授業を受けるものは、カラテという「体術とは何か」を教わる前に、立ち礼、座礼に始まる、日本人が昔親しんだ礼儀作法から教え込まれる。

ジュ−デオ、クリスチャン、モスレムのファンダメンタリストの中には、神以外の対象物にたいして頭を下げる行いが、自分の神を侮辱する行いになりかねないこともあって、学生には礼をする行いの意味から解説しなければならない。すなはち、相手の身体に触れてその手を握る礼儀作法とおなじく、その起源、その「見かけの体の動き」が、体系化する形式の慣習が何故始まったのか、納得できるように説明する必要があった。

東洋人には古来から相互の身体に理由なくして触れることを戒める風習がある。相互の身体の間に空間をおいて、お互いの尊厳を保つことを「礼」とする。いっぽう、西洋には相互の身体を意図的に接し合って、親愛を表示する習慣がある。たとえば、握手である。利き手を示して、利器を帯びていないことを示しつつ、相手の素手を握って、悪意の無いことを表示する。

1970年代ニューヨクとロスエンゼルスで、韓国人が経営する雑貨店が黒人の襲撃を受けると言う事件が重なった。韓国人は黒人を人種差別すると誤解されたからである。何故!? 韓国人はお国の習慣に倣って、客の手に触れることを避ける。つり銭を渡すときに、店主の手から客の手に、その手に触れて、渡すことをせずに、紙幣や金貨をテーブルに置いて、数えて、客の手元に差し出す。その仕草が、黒人の客から、さては、この店主は、黒人の手に触れるのを嫌うからだなと解釈される結果となってしまった。

異なった習慣、文化の環境で育ってきた人間が二人いる。ふたりとも、自分を律する作法に関する限り、それなりの訓練を受けてきたから、自分の作法を正しく示すことに問題はない。しかし、未知の作法が意味する形式を見かけで解釈する知識はまったくない。当然、自分の経験で習得した知識に頼るほかはない。相異なった言語を習得するのと全く変わりはない次第である。

身振り手振りで自分の欲することを相手に伝えるという簡単な意思の表現も、所変われば、同じ所作も意味することが全く変わってしまうことがある。韓国人の店主が見せた作法が所変わった合衆国の街角の店頭で行えば、現地の住民を不愉快にさせる意思表現に繋がるというのは、郷に入ればその郷のみかけの作法を正確に習得することが誤解を受けない唯一の方法となる。

それを知らずに勝手に我が身に付いていた日本人の身振りをしたことで、一生の悔いを残した経験がある。渡米してきて勤めた、 サンフランシスコ州立大学の新学期、初の授業で犯した最初の失敗だった。

日本では東京都区立中学の非常勤講師の資格で英語を教えてきたから、英会話をそれほど懼れたことはなかったが、横浜から乗船した、旅客船で、ぼくの英語が通用しないことに気がついて、英語を話すことにすっかり自信をなくしていた時期の話で、身振り手振りのボデイ言語に頼っていたのが不幸だった。カラテの指導の方は、ほとんど、英語を使わずに、実技を演武することで、そのクラスをどうにか教え終えたものの、授業を解散する瞬間、間違いをした。列席していた一人の学生があまりにも印象的だったので、個人的に話がしたく、みぶりで、近寄るように手招きしたからである。ぼくは、手を上げて「おいで」「おいでの」をした、(つもり)だったのだが、その学生、正座から起立して、いったんぼくに近寄りかけたが、ぼくの招き手に押し戻されたかのように、後すざりし始めるではないか。ぼくは、戸惑い、あわてた。うっかり、声をあげて、「プリーズ」といってしまった。かれは、神妙に、一礼して、ジムの出口に向かい、そのまま消え去ってしまったのだ。

ぼくは唖然として、鼻じろんだ。

後で分かったのだが、ぼくの手招きの仕方が逆だった。悪かったのは、ぼくの方だったのである。

日本では、遠くにいるひとを呼んで、招くときは、手のひらを下にして、人差し指から小指を手前に曲げて呼び寄せる。それが逆の意味になるというのである。つまり、アメリカでは、手の平を上に向けなければ、来いという意味にはならず、出て失せろ、という意味になる。その学生はその日をもって、ぼくのクラスに戻ってこなかった。ぼくの不信を買って怒られたと思ったのだろう。こっちは模範にしたいほど、よく訓練のできた人だと思っていただけに、悔恨の思いは大きかった。誤解というものはそれほど重大な結果を及ぼすことがある。

こんなこともあった。これも、渡米したてのころだったが、アパートに本箱を自分で作りたく、鋸を買ってきたときのことだ。あのころは、メイドイン・USAの商品は日本でも保証付きだったのに、その鋸が役に立たないのだ。棚にする板が切れない。金物店に持って帰って切れないというと、憮然とした店主が切って見せてくれた。見事に切れるのである。不思議なこともあるものだと、店主の手元を見て驚いた。なんと、手に持ったのこぎりを前に押して切っている。日本では、鋸は後ろに引いて切るものである。押す、引くの相対的な動きの違いであるが、引くことをもって訓練されたぼくの手は、押すだけの差に関わらず、容易なことではないのを知ってぼくは気が付いた。戸を押して開くか、引いて開くかの力学の功用が、現地の人種の体質、筋肉学な特殊性に基づいているということではないか。単なる習慣の違いだけではなく、人種、人体学と文化の比較相互関係の知識を必要とする学問の分野なのである。

言語文化のプリントの違いが及ぼす印刷物の表と裏の表紙のページが逆になるのは誰でも知っている。インドヨーロッパ語での印刷物は左から右へ横書きだから、本の扉は左に始まり右端で終わる。一方、漢文を主体にする東洋文化の印刷物はその逆、縦書きなら右端が頭で、右から初めて、左端で終わる。

実はぼくはこの違いが、表紙と裏表紙の価値評価を決定する視覚的な観察をきめる標準にされることを、初めて乗ったサンフランシスコのバスの中で習った。バスの席に座って、日本からもってきた週刊誌を読んでいたのを、後ろの席で観察していたまだ5歳にも満たない女の子が母親に向かって、

「ママ、この人、本を逆さま(バックワード)に読んでるわよ」といっているのを聞いた時である。実はぼくはそのとき思わずふき出してしまった。なぜならば、ぼくにはこんな記憶があったからである。ぼくの世代の日本の公立中学校では英語が第一語学で、一年生の新学期に英語の教科書を受け取って、ABC のアルファベットが横書きで、本の表紙が逆なのである。英米人は逆行だなと言い合って笑ったものだ。

 パラダイム・シフトという言葉がある。

天動説というかっての公理が、その後地動説に取って変わった為に生じる、価値の変換もそのひとつである。地球は平面上の空間にあり、天体が地球の周囲を回転しているという見かけの運行が、地球は実は球形の固体であって、太陽を求心体にして回転していることが観察される。その結果、地球の表面に位置する空間と他の空間に相対関係の距離が生じて、各地の地理的経度の距離の違いで、地球の自転に従い、時の観測に差ができてくる。これが時差である。

地球上の経度の違いによる、時差が、日常生活に及ばす影響は、毎日、毎時間、国際線を旅する職にあるものにしか分からない感覚だろう。理論的に理解する時差と感覚的に認識する時差に思いもかけぬ、文化的な「落とし穴」ともなる。たとえば、アメリカ合衆国に住むものならば太平洋岸に接する各州と大西洋岸に接する各州の間に3時間の時差があることは子供達も知っている。だから、長距離電話をかけるにあたって、常に電話をかける現地の時間を確認してかける。至急の用ではない限り、未だ睡眠中の時間帯をさけるのはどこの国でも変わりない礼儀作法ではある。

しかし、時差の違いが、日本国と合衆国との距離となると事情は今少し複雑になる。標準時間の合衆国国内の時間は日本時間と、大西洋岸で14時間、太平洋岸で17時間の違いがあるから、日付が一日変わってしまうことがある。

一日という日時がもたらせる違いが、日常生活に及ぼす影響は意外と大きいのである。ぼくはそれを渡米してから、6ヶ月後、12月7日になって気がついた。アメリカ人の弟子がこの日は危険だから、日本人は必要がない限り外にでない方が良いと言われた時だ。なぜかと聞くと、日本帝国海軍が真珠湾を爆撃した日だから、まだ悪感情をもっているものから暴行を加えられる怖れがあるというのである。ぼくはおかしいなと思った。ぼくの記憶では、あれは昭和16128日の筈である。何かの間違いだと思って、図書館の英文百科事典を読んで、なるほど、と思った。日本時間では128日だがアメリカでは時差のため127日になる。そこで、変なことを思いついた。時差の注釈なしでは印刷された行事の日時が各国の経度地点によって一日違うことがあることは、つまり、自分の記憶が正しいと思った日時が、必ずしも絶対的に正確な日時とは言えないということである。そして、ぼくの誕生日が来た。故郷から「おめでとう」の電話をもらった日が、実際の誕生日より一日早かった次第である。その時はもう驚かなかったが、日付すら、普遍的な記録になり得ない。日本の大学受験で丸暗記してきた、有名人の生年月日を含めて、歴史的事件の日付けは、生誕日ならば、その人の生誕地の経度を参照して確認するという作業が必要になり、事件ならば、それが起きた場所の経度を考慮しなければならないということだ。

自分の誕生日は東京生まれの方が東京にて祝う限りでは正確だが、西欧米の各地で生まれた方は、現在地との時差を考慮して逆算する必要があるということに成る。最近の事例では、ニューヨークのテロ爆撃があった、9/11事件である。あのとき、東京は9月12日だった筈である。9/12と呼んだ方が実感に近い。同じことが北日本の惨事、3/11震災である。あのニュースはぼくは3月10日の朝からオンラインでみていた。

現在、グローバル暦法として採用されたグレゴリー暦ですら、経度の違いを、感覚に入れなければ正確な時を計り、記録することはできないということは、ユリウス暦法からグレゴリー暦に移行した各国の政治的な歴史を考慮しなければ、太陽を公転する地球の周期を正確に比較できないことになる。日時計をもとにした絶対的の時と言えでも、各国が制定した標準時の誤差を念頭に置かなければ正確に把握することはできない。

いいかえれば、各文化間にある違いは形而下にある日常一般の生活様式ですら普遍的な価値判断を計る測量計はないということである。

食生活文化を考えよう。米麦粟の穀物から家畜にいたるまで、民族、文化の違いで常食の違いは千差万別である。ところが、何を食べるかという違いが、ある文化の常食が他の文化の習慣を敵視すことになる結果となる怖れがあるのである。例えば豚肉を食べない民族がいる。理由は違っても牛肉を絶対に口にしない民族もいる。なぜ食べないのかを認識するしないの問題ではないのである、それを食べない者達が、食べる者に対する認識の欠如が動機となって、他を差別する感覚が問題なのである。異民族間の感情の違和感は習慣にもとずく食餌規定が他の食餌規定に反する場合である。その逆の場合も同じである。豚肉を食べるものが、それを食べない者の前で食べることが、いかほどに、不快な思いを与えていることに気がつかないということである。

最近は食生活がグローバル化しているので、例を少し極端にしてみる。あまり歓迎されない肉、例えば猫の肉である。合衆国でならば、それをメニューしたレストランがあれば、民事訴訟の対象とされ、「苦情」問題と相成ろう。しかし、現実問題、うまくはないだろうが、必要とあれば料理して食べれる筈である。しかしそれが他の反感を買い当然、差別の理由とされる。

ゴキブリを食べたことがおありか。醜い虫である。そんなもの人間の食べるものでない。とおっしゃって当然だろう。ところが、ゴキブリは本来は雑木の根元に繁殖、その木を抜いて、同昆虫を食する民族も居るのである。それが、重要なタンパク質、人類の食生活には欠かせない、三大栄養素の一つと指摘されれば、なるほどと、納得していただけるかもしれない。しかし、だからといって、台所にたむろするゴキブリを食用にせんとするものがあれば、非常識な行いとして、他の顰蹙を買うことになるだろう。

個人の先入観で、他人の慣習を社会的に制裁することが起こり得る。例えば、日本人は好んで生魚を食べる風習があるが、生魚が腐った悪臭をきらって、生魚を食べる者から、腐った魚の悪臭を連想する類いの偏見は後を絶たない。ニンニクを食べる者を見て、仮にその臭がしなくとも、ニンニク臭いと思うのがその例である。

ひとは自分の好む衣装を着て、自分が非とする衣装を着る者を非難することがある。着るものに関わらず、身なり、装飾、それが知的な感覚、考え方、能力が地元の社会一般の常識に反するものを排斥する。ある種の服装を他の者を不愉快にする、秩序に違反する者として処罰する対象とする。

同じことが、思想、宗教、哲学という形而上学的な次元の保持者にも当てはまる。歴史的に、文化的に規制された思想が相互の文化の違いによる違和感が原因になって、他を排斥、処罰しようとする「暴力」が戦争に繋がる。もちろん、戦争はそんな単純な原因ばかりで、始まるわけではない。先入観故に、相互の理解に限度ができて、阻止できたはずの、言語の対話が欠如していたことは充分に考えられる。大規模な暴力同士の闘争史を振り返ると、歴史前期からの、数千紀に及ぶ永さ、というか、人類発祥いらいからの、社会現象だったとも言える。これからも、この種の闘争は繰り返されるであろう。

文化、習慣の違いというものにはそれだけの理由があってのことなのである。その違いの、根本的な理由を知らずして、いたずらに、その違いがもたらす差別意識を戒め、相互の人権を認めて、同じ空間に共存せんと勤めるならば、偏見を阻止、さらには暴力行為をとどめることもできる筈である。

歴史の記述は勝者による記録にもとずいてきた。

その闘争となる「対決」なるものをDISCIPLINE (鍛錬)の対象にするのが、武道である。「尚武の精神」を直訳して、西洋人にその WAY OF ART もしくは WAY OF LIFE を指導しようとすると、大変な誤解を与えることになるかもしれないことも、考慮に入れなければならないだろう。「闘争」の行為、哲学を西洋人に解説するには、西洋人が親しんだ言語、哲学、思想を例にとって、紹介する必要があるのではないか。すなはち、日本伝来の文化であるから、これを伝統的な日本語、漢語の定義を英語に直訳しては、学生が分かったような顔をしていても、十分に納得してくれたのかどうか分かったものではないことを、指摘させてもらっているつもりである。

「西洋文化の根本にギリシア文化がある」という歴史観がある。19世紀に確立された、歴史学、哲学、科学、美術、文学界の定説である。それが正しいか、正しくないかという問題はさておいて、古代ギリシャ語が近代の西洋文化にもたらせた影響力を考慮に入れるならば、西欧の学術界が主張する歴史観をひとまず、認識して、哲学、文化一般の「ギリシャ哲学に乗っ取った、定義化の体系」を採用することを阻む物ではあるまい。

なるほど、カラテは琉球郷土で温床された体術文化ではあるが、指導する対象が西洋人であるのであるならば、同対象になる人々がが親しんだ言語、感覚、形而上学的な定義をもとにして紹介、指導するのがより効果的なのではないかと考える次第である。

例えば、精神鍛錬という日本人が常用する熟語を直訳して、解説しても、分かったような顔をしていても、基本的なところで誤解していることが良くあるのである。ぼくはカラテを米国の公立大学で指導するにあたって、アリストテレス修辞学の実践、「ロゴス、エトス、パソス」による弁証法を応用してきた。

ソクラテス、プラトン、アリストテレスは日本人では小学生でも知っている古代ギリシアの哲学者である。ギリシャ哲学の体系に基づいて、東洋文化の論理を提供できる筈なのである。

長過ぎる前書きとはなってしまったが、それならば、カラテとは何か。カラテを習うことが如何に個人の日常生活を精神的に豊かにする のか、その魅力を、本質、実用化, そして、それを指導する者の魅力なるものなどなどを、多角的に総合して、考察させていただく。  

 

 

 648 BC 古代ギリシャ・オリンピックの種目とされた

パンクラテオン


 

第1章:ロゴス考

カラテの本質が持つ魅力

 

その体系の認識を説く

 

ぼくの教える大学では、「カラテ」は 過去40余年、Kinesiology Department の教科課程(カリキュラム)Physical Confrontation,  Martial Arts, の実技に履修されてきた。ひとクラスを一学期受講して、筆記・実技のテストにパスすれば、1.0 単位を習得できる。学部学生は4年間に最低2.0単位の実技を必修しなければ、卒業できない。

カラテは東洋文化財の一つであるが、西洋にも、ボクシング、レスリングなど格闘術の体育教養文化があり、米国合衆国の公立教育機関の体育 (Physical Education) 教科のひとつである。サンフランシスコ州立大学でも、カラテのほかにもPE 実技に、テニス、水泳、バレーボール、バスケットボールの各種実技を選考することができる。

日本には伝統的な武芸百般、もしくは武道という呼称の教養科目があり、カラテ、合気道、柔道はそのカテゴリーの中で指導されてきた。確かに歴史的には上記三つは中国を経て輸入されてきた中国拳法の支流ではあるが、琉球には唐手と呼称された、中国拳法以外に「手」という独自な格闘術があったという説がある。ぼくらが教える「カラテ」もしくは「空手道」なるものの体質と形而上学的な本質をまず確認してみたい。

最近の遺伝子学分野の研究の発展は著しく、DNA (デオキシリボ核酸)と名ずけられた高分子生体物質の遺伝子を採集、統計して読みこんだ人類発祥とその移動史が紹介された。Spencer Wells 博士によると現在生存する全地球にすむ人類のDNAを採集して、その母系遺伝子、ミトコンドリアと父系、Y クロムゾンをもとに調べたところ、原人類はすべて5万年の昔アフリカ大陸の東海岸、現在のタンザニア、ケニア付近を出て、中近東、インド、オーストラリヤ、東西ヨーロッパ、さらには、北極からアルーシャン列島を経て新大陸へ移住、約2万5千年をもって、全地球に頒布現在にいたるものであると発表した。

アフリカに発祥して、世界各地に頒布した原人類はもとをたどれば、「アダム」と命名された特別異変のY クロムゾンをもつ、男性に帰属するということは、容貌、体躯、髪色、肌色の違いはあっても、地球上に実在する人類すべてのものが、肉親、親兄弟であることになる。すなはち、それぞれの見かけや、言語、習慣、宗教の違いはあっても、その生理、心理、感覚に関する限り、基本的には同じDNA を持つ生命体だということである。

「ひとは道具を考案した唯一の知性を持つ生物である」という、定義がある。そのとうりであろう。道具や火の扱いを習得した知性は人類の想像力の応用の結果で、それが文化の発祥に繋がる。素手による格闘、闘争は、しかしながら、道具の応用ではない。自分を、自分のものを確保する為に身に付いた腕力という、本性そのものである。しかし、自分の身体を操るという知識は、その知性に基づいて、より効果的な技術を考案する課程を経てできている。例えば走るという行いである。つま先で走るか、踵に重心をかけて走るかという機動性は、スピードを目標にするか、耐久力を目的にするか、それぞれ違いがあるから、走ることの目的に準じて、臨機応変に「論理」を選場なければならない。それも、出生後に教えられた経験をもとにした知性である。

霊長目類もしくはゴリラの習性を研究する学者によると、ゴリラの本性は人類と非常に似ており、社会生活をするにあたって、闘争、対決を好まず、どちらかというと惰性、友好的な本性が其の特質であるという。暴力を持って対決するのは、追い込まれるか、自己のの生命が危険に曝された場合によるもので、けっして、闘争を好むものではないという。

 

 

人間の本性も決して獰猛な知性を持たないということになる。例えば、ターザンみたいに、ジャングルではなく、平常な人間の社会で育ったものならば、動機抜きで人の命に危害を加える人はおるまい。少々、乱暴な例ではあるが、生まれたばかりの新生児を手に持って、あやしながら、その児の首をしめて、生命を絶つことができる人間は居ない筈である。正気である限り。

もちろん人間には残酷な暴力行為をおこなう、能力はある。毎日の新聞、雑誌、テレビの報道を読み、聴けば、分かるとうりのことである。しかし、その暴行は、れっきとした、動機があってのことである。ぼくらが行う暴力行為は生後習得した知性による経験、教え込まれた先入観によって習得した、後天的に習得した行為なのである。また姑息な例で申し訳ないが、前例の新生児を抱いて居る人に、その児の首の骨を折らせる方法がふたつある。ひとつは、赤子を抱くものを強制する方法である。拳銃をそのひとの頭に押し付けて、殺しなさい、殺さなければ、あなたの頭を撃ちますよとおどかせば、その人は本来の自主性を失って、他力の指示に従うかもしれない。躊躇する者がおれば、さらに効果的な方法がある。知的にそのひとを洗脳することである。この新生児は20年後、非常に危険な男になる。自分の両親はおろか、隣近所に始まって、周辺の共同体、さらには、国まで滅ぼし、やがては、全世界を破壊する「悪魔」になるだろうと、説得すればよい。

説得された人間は従順である。おそらくそのひとは、進んで、説得者の意思に従うだろう。ぼくたち人間には先人によって養われた、観念を信仰する傾向がある。正しいと信じた信条を実行に移す訓練を身につけている。それは「正義感」を養うという正当な善行なのである。宗教的ドグマ、もしくは、形而上学的な「思想」を信ずるナイーヴな善人が、本能にはない非情なおこない、暴力を発揮することができるということは、軍隊という特殊な環境のなかで、上官の命令に無条件に準ずる義務を果たすことが如何に、人間本来の本性に叶っておるかという証拠にもなる。

もし、人の指図に無条件に従うという義務がなく、自己個人の判断に従うという自由があれば、特定の説得者が暗示するところの、予言を信じないかぎり、人を殺害するという行為はできない、ということでもある。第三者の言葉を信じてしまった段階で、極端な行動をおこなうことに、誇りを持ってしてしまう。それをすることで、全地球を救うことができるかも知れないと思うことが使命感に結びつく。内容のないヒロイズム(英雄像)に自己満足の対象をもとめる、人間の弱点ではないだろうか。

恐ろしいのは、その使命感なるものである。20年後におこることを正確に予言できること自体が非常識なことであるから、これを信ずることが、いかに、無謀なことであるかということを認識しなければならない。人間本来の習性にはない「行い」をするように成長するのが人間ではあるが、後天的な経験が人間本来の生理を損なわないように、健康な「感覚」による知性を保護する訓練もさせなければならないということではないか。

人間に獣性がないから、それを植え付けるという感覚は、ある思想を暗示する、出生以後に積み重ねる経験による知識ではあっても、好ましい思想ではあり得ない。

ぼくはカラテの指導員を職業にしてきたが、教育者としての自覚をもって、その仕事に従事してきた。

Physical Confrontation は、人間の社会生活に起こりうる、他人との「対決」のことである。その「対決」が人間の社会生活を、力学的、生理学的、心理学的に、損なわないように、守る為の理論。すなはち、人体を精密な機械に訓練すること、これを実行する為の強靭な心理学的な感覚を養う為の学識、知識が体系化される。其の体系化された、人体と感覚だけがカラテではない。突いたり、蹴ったり、投げたりする技を、力学的に制御できる技能と人身をいたずらに傷つけないという、知性を養わなければならない。

その特技と感覚が、凶器にもなるかもしれないからなのである。

特殊な能力を持つ精密な器械に仕立て上げられた身体をもつ習得するものものに、盲目的な動機を教えることが如何に無謀であるか考えてもらいたい。ぼくは、学生に、盲目な正義感は危険なものであることを、はじめの段階で教える。つまり、正拳という突き技を教えた時点で、学生同士に、わざと、その正拳をパートナーと向かい合って、相互の顔(じんちゅう)に強く速く応用して、一寸先で止める稽古をさせる。

この大学で教えること40数年、その最初の稽古で相手にけがをさせと言う事故は、おかげさまで、いちどもおこらなかった。稽古中の怪我は、学生がクラスに慣れて、緊張度が失われた段階でおこるもので、まだ未知の他人を前にした段階では、本能的に、自主神経の制御のメカニズムが相手に傷つけることを拒否するからである。うっかりけがをさせないように、10センチも20センチも距離をおいて突くものがほとんどである。しかし、それでは、突きとしての功用が成り立たないから、できるだけ、接近させて、スピードも突きの力も落とさずに突かせる、コントロールの訓練を心理学的応用に従って行う次第である。制御とはそういうものでなくてはならない。うっかり当てて、相手を傷つけることを恐れるあまり、間の距離を置いた、安易な突き方では、その突きのそのものの素質がない。秒速100キロの速度で、加速された突きを、標的の一センチ前で正確に止める訓練ができてこそ、技術もしくは鍛錬と言える次第である。

その段階で、ぼくは学生に、人間の本性には理由なくして人を傷けるという、残忍性はないこと、だから自分自身の心理的、生理的なメカニズムに自信を持ち、他の身体を傷つけずに、スピードの速度、インパクトの強さを弱めずに、突きを正確に応用させることの繰り返しが、素質を発達する要因になることを理解させる。

心理的な緊張感は筋肉をこわばらせ、正拳突きをおこなうならば、その功用を失速、失力する。だから、一日千回も、二千回も素突きを繰り返して、その正拳突きなるもののスピード、重力、拳の硬質、そして的の寸前で止める制御の練習をさせなければなるまい。

突き、蹴り、当ての手業、足技は、その破壊力が可能な限り最高になることを目的にしてこそ、指導の本分となる。地球上のいずれの風土帯、季節、土地、文化に育ったいずれの人類も、自分なりの動きを自得している。ただその業が系統的に体系化されてない。当然、知性の発達に従って、身体のすべてを応用、 選択肢化すること、独自な技の考案と企画性のある鍛錬法に基づいて、組織付けるというシステムが出来上がる。

それがカラテの本質なのである。

この研修に当たっては、物理学、数学、幾何学、筋肉学、心理学、動力学、人類文化学というあらゆる教科を応用して、オーケストレイトする必要がある。いまひとつ、カラテには実用化不可能な技も含まれている。指先をつめて突く貫手がそれである。指先を砂、穀物、砂利石にさす習慣の結果、奇形化して他人の身体に錐のように差し込むという感覚は科学的ではなく、むしろ、人間の創造意欲の想像力がもたらせる、文学的、猟奇的、宗教的、神秘的なオカルトでもある。

 人類発祥以前からの体技だったはずである徒 手空拳の格闘術は、猛獣の習性をまねたり、アニミズムのように野獣の動きに見せかけて、霊性を仮想する心理的な次元がある。ヒューマニズムの感覚の一つでもあり、舞踏、演劇同様、歴史前から存続してきた最古のパ フォーミング・アーツのひとつだったと考える。これもカラテの本質である。

 パフォーミング・アーツとは身体の各部分を駆使して、それを 創造神 、第三者(観客)を意識して演じる行いである。演劇、歌謡、舞踏がその判例に含まれる。人間の知性には創造性、想像力、これを演舞する動機にする感覚がある。

  武術の演武と舞踏の演舞には根本的な相違がある。演武は演舞と違い観衆を対象にしたパフォーマンスではない。つまり、見世物ではないはずである。自ら鍛錬した護身の力を披露することは護身の目的と矛盾するのは考えればわかることである。

かし、人類の特徴はクリエイテヴィテイ。創造、もしくは造型本能に結びつく知性が秀でていることである。ただ、殴る、蹴る、投げるという技術を考案するだ けではなくして、その動きや行いに美的感覚と、体育学的効能、ひいては道義的な哲学、思想を装わせて、その体系を正当化してきた。公衆の前でこれを披露す る、という心理的な動機も人間の本性である。

 さらに複雑なのは、太平洋戦争のエピソードとして、アメリカ海兵隊が目撃した、奇妙な話がある。同大戦末期、本国からの輸送が断たれた各南洋諸島の守備部隊は、弾薬はおろか食料にいたるまでその補給が底をついていた。米海兵隊上陸に当たって、熱病と餓えにあげく日本兵は島の洞窟中に地下防空壕をつくり防備にあたった。

 戦後、これを目撃した海兵隊の話によると、地下壕からでてきた半裸体の日本兵が、戦車の前に現れ、踊りのような演舞をしたというのである。おそらく、空手道「形」の演武だったのだろうが、アメリカ人兵士にはその解釈に窮したという。火炎放射銃を装備した戦車隊をまえに単身文字とうり無防備で出現、斯道の形を演武してみせる精神状態の異常さは別にして、カラテを鍛錬したものならば、わからないことはない、メンタリテイでもある。被害者意識を克服するある種の自己顕示だったのかもしれない。その、デフォルメされた心理表現もカラテの持つ本質になりうる。  

 

 

西洋文化史のなかでもとくに顕著な「人間性の再発見」は14世紀ー 16世紀  北イタリアのフィレンチエを中心におこった、ルネッサンスである。レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウイトルウイウス的人体図」は特に注目に値する。キリスト教集団の政治的関与の為、西洋は中世期に、唯一神を絶対化するあまり、人間性の原罪観を樹立して、人間そののものの価値を軽視する傾向があった。古代から受け継いできた、宇宙科学に関する知的な認識は、一時、排斥され、暗黒時代を迎えた次第であるが、「文芸復興」による、人間性の再認識が美術、芸術家達の手で行われたものである。「人体のプロポーションの法則」とも呼ばれる、ダ・ヴィンチの解剖学をもとにした研究によると、たとえば、左右の腕を開いた人間の指先から指先までの距離は、その人の身長と同じであること。人体の各部の間接から間接の長さはそれぞれ比例していることなど、人体の調和が提唱されたことである。

 面白いのは、カラテの業を分析すると、沖縄の先人達はその事実を認識していたらしい資料があるのである。例えば人体の上・中・下の三急所、ジンチュウ(上唇)から水月、水月から睾丸までの距離は同間隔であり、その距離は拳から肘関節と同じであるという事実。さらには、サンチン立ちと呼ばれるスタンスの造り方は足のつま先から踵の長さと、肩幅、そして、つま先から膝関節までの下肢の長さが、比例していることを前提にしている事実。三角関数(ピタゴラスの定理)を応用するならば、足の長さに2の平方根(1.14)をかけると、肩幅となり、足の長さに10の平方根 (3.16)をかけて、それを2で割ると、下肢の長さが算出することができることが分かる次第である*(01)

 カラテに応用された知性は人体学の科学的研修も適応されていたのである。

儀礼的に形式化された「形」もカラテの本質である。習慣になった人間社会の行事は形式化される。結婚式、葬式、等もそうだが、能、狂言、歌舞伎、舞踏、オペラ、バレーなど、いずれのパフオーミング・アーツにもその独自な形式化が見られる。カラテも例外ではない。

 日常習慣の社会学的形式化は祭日、葬儀、婚姻、出生の式典をはじめ、神殿、仏殿、教会の定式にひとしい。造形美を具象とする人間の想像力の判例とも言われる。カラテには人類学的に無視され得ない興味深い教材が含まれている。

 

 

(注)* (01) 詳しくは拙著、The Fundamentals of Goju-Ryu Karate by Gosei Yamaguchi p.26 を参照のこと。

 

 

 

 

 

第2章:パトス考

カラテを習得することの魅力

共鳴の認識を説く

 

 指導員は、教材の魅力を学生に共鳴させるべきである。カラテは他人を排斥するためのものではない。他人と共存する為に、自分との対話がなければならない。多数文化の共同体社会にあって相互の共存を促進するこころがけが肝要であると思っている。カラテなるものが魅力のあるものであっても、それを身につけることに魅力がなければ、学生はついてこないからである。

ぼくは稽古着を支給する前に、クラスの登録にあたって、セメスターの初日を、オリエンテイションとして、カラテとはなにかという問題を説明する。アメリカ合衆国にはこの半世紀の間に、日本国伝統を称する「カラテ」だけでも、百種を超える流派が普及されてきたので、ぼくが教える「カラテ」なるものが、登録した学生の期待した物であることを確認してもらう為に説明することにしてきた。そうすることで、学期が始まって、こんな筈ではなかったと、クラスから脱落する学生が続出しないようにと思う親心でもある。

ぼくのオリエンテイションでの一言は「暴力否定」の宣言ではじめる。カラテを習得することは、自分を生かし、相手と共存する為の知性と体術を身につけることであること、そしてそれは、「カミソリ」をポケットに所持するのと同じくらい危険なことなのだと話す。人を傷つけるばかりか、自分自身を傷つけることにもなるからだという。

学生はそんな物騒な刃物になれるわけがないと、本気にしない。そこでぼくは、まず、ひとそれぞれ、大小の違いはあっても、それなりの体重を持っていることを指摘する。クラスを一望して、小柄な学生の目に視点をあわせながら、そのクラスにいる誰でも、そのつもりになれば、今この場で、巨漢の男性を一撃でノックアウトできる力を持っていることを紹介する。体重が30kgにも満たない学生でも、拳の正しい握り方を取得すれば、その拳の質力故に、時速100kのスピードで突けば、相手が6尺豊かな巨漢であっても、一撃で倒せるだけの衝撃をあたえるとができるという理屈を披露する次第である。

理屈はこうである。15ポンドのボーリング・ボールは6.8kgの質量である。このボールを目の高さから素足の足先に落としてみることができるかどうかを聴くことで、ボールの衝撃が如何に破壊的であることを、認識させることができる。ボーリング・ボールは日常生活には珍しいものではなく、学生はその小さなボールでも、爪先をつぶすほどの威力があることを実感できる。インパクト6kgを水月に受けて倒れない人間は居ない。だから、30kgの小柄な人間でも破壊的な力を発するすることができるしだいである。しかし、そのインパクトは突くものの身体にもカウンター・インパクトになることを知らせることが重要なのである。習得した「技」を習って、人を倒すことは簡単である。ただ問題は突いた方も傷つくのである。人の手首は目標と90度でない限りその衝撃で骨折してしまう。人の身体を30kgの衝撃でつくことは、つかれる人の身体が、つく人の腕とこぶしをつくことなのである。つく方の身体にそれを受け止める抵抗力がなければならないということだ。

衝撃は相手にあたえるばかりではなく、自分自身を破壊する力があることを忘れてはならない。手首をくじいたり、肘関節や肩の関節を脱臼しないように、技の鍛錬法に従わなければならないからだ。

体重が及ぼす衝撃力は、腕立て伏せを拳でさせてみせることで認識することができる。初心者でも左右の拳で自分の体重を支えられるものがたくさん居る。しかし、左右いずれの拳をあげて、拳一本で、自分の体重をさせられるものはそんなに居ない。ほとんどが、手首のバランスを保持できないでくずれてしまう。自分の身体を筋肉学、動学の知識にもとづいて、精密な器具に仕立て上げることの重要性を説明する。人を殴って自分が怪我をするのでは意味のない話なのである。

 カラテは、果たして、護身であるという形而上学的「理念」に当てはまるかどうかという問題をぼくは学生達と話し合う。西洋、特にアメリカには護身の論理を正当化して、暴力を肯定する「思想」がある。「護身」を、最大限に効果あるおこないにするには、身の危険になりそうな者、物を、はじめから、物理学的に、すべて、破壊しておくことである。天上天下、唯我独尊の権力をもつものの理想でもあろうが、しかし、その思想は絶対に受け入れられない。おのれを含めて他と共存することが、人間社会にもっともふさわしい、思想であるはずだから、護身という感覚は危険な感覚でしかない。

だから、ぼくは「護身」の言葉がもつ語彙と感覚がもたらす矛盾を、詳細に学生に検討させる。

素手による、セルフ・デイフェンスは暴力の正当化になりうるか。

 アメリカ合衆国は、多分化共同体の社会で自己の生命、権利、財産をまもるための基本的人権が公認されている。当然一般の家族所帯には拳銃、猟銃、ライフルという武器を備え持つことが許されている。カラテという技を身につけることが究極的、自己防衛になるものではない。

 人間は生来、臆病なのである。自分以外のもとを対決することを恐れ、その不安に日常苛まれる。とくに自分の体力に自信の無いものは他人との対立、対決を恐れるあまり、欲しいものをはっきり口にも出せない程の劣等感を抱くことにもなる。しかしそれでは生活の営みに支障をもたらせるから、他人に自分の権利を主張する為の勇気を育成しなければならない。喧嘩に強くなれるということでは決してない。暴力を振るった段階で、そのひとが、主張するべき権利を失ってしまうことを忘れてはならない。

 カラテという「他人と対決する業」を習得することで、素手であるかぎり、他人の暴力の犠牲にされない、という、確信と自信が、他人と自由で平等な社会生活を行う為の助けにできる。それが、カラテを習得することの魅力の一つであると、信じている。

 西洋のジュウデオ、クリスチャン、モスレムの文化圏で温床されてきた格闘体術と、仏教の文化圏で発展した武術には体質的な違いがある。すなはち、護身を正当化する闘争自体に解釈の違いがあるということだ。

 「カラテ」は始め, 「てイ」と呼ばれていた。「那覇手」「首里手」「泊手」というように、琉球の土地名をとって、各ローカルの独自性をしていたものの、中国大陸から輸入されてきた同系の拳法は「とうてイ」と呼称して、識別されていた。もちろん、これには異説もある。琉球文化はすべて大陸から伝播してきたもので、「てイ」も然り、「てイ」 と 「とうてイ」の違いは輸入されてきた時代の差で、「てイ」は明との交易が始まった14世紀以後、冊封使についてきた武官から習ったものだろうといわれている。ぼくは沖縄には独自の武術が大陸から伝播された体術とは独立してあったと思っている。琉球古式の体系に、中国拳法には見られない、独自な「拳」を握る業が残っていることを考証してのことである。

当初は琉球の郷土文化として市井の有志により指導、伝搬されていた体術が、同島が沖縄県として日本国の国体に従属されるにいたって、17世紀初頭の薩摩藩侵略以来、「唐手」の名称で、ヤマト本島に伝搬され、日本国郷土文化として、日本国政府が、戦前は武徳会、戦争直後は文部省傘下の体育協会、現在では文部分化省傘下の各行政法人の中で組織されてきたものである。いまでは、伝統的日本文化遺産として広報されてきたが、実は琉球独自の郷土文化だったのである。  

その郷土文化を、異国情緒をロマン化した「やまとん衆」がこっそり、密輸出「ねこばば」して、「日本伝武道」に体質をかえてしまったものであるが、心ある琉球の先人方たちには、さぞかし「迷惑千万だと」心外に思われたなことだっただろう。本来なかった業や指導のプログラムが勝手に作られ、中央集権下にシステム付けられてしまったのだから。

 勿論、「手」には中国大陸沿岸の都市に発達していた、内家、外家の拳法、さかのぼれば、インド、メソポタミア、ギリシャの古代文化 にその発祥が見受けられる体技の一部であるものの、武道という日本独自の体系になった、カラテは沖縄の「手」を基礎にしたものに他ならない。類型からするならば、インドから伝播されたヨガが変身して中国武術の外家拳の一派、少林拳。あるいは別派、内家拳の太極拳等などを含めて、共祖母 体と解釈できる。古代オリンピックの種目として数えられているパンクラテイオンは壁画から想像してもカラテと同じ格闘技といえるし、これが、西暦前九百年 代に体系化していたことを思えば、世界最古の文化として知られるシュメール文化時代まで発祥の歴史は遡るのは確実だろう。 

 沖縄の「手」の先覚者たちは口をそろえて、「忍耐」という精神的な訓練を説いた。「忍」の一字は沖縄の武術「手」を象徴する思想である。戦前、戦後のカラテ部の学生が「押忍」(オス)を連呼して、そのアイデンテイテイを衒って見せたのもその教訓故のことだった。

 西洋の格闘技には、対決するという闘争の動機にこだわる思想はない。戦闘そのものを肯定して実施されるべきだから。だから相手を倒して勝利を得ることが究極の目的になる。「競技なのだから、勝たなければならない」という、感覚はすなはち西洋のスポーツ一般に共通する目的意識なのである。勝つか負けるかという、二者選択のコンテストである。

 一方、「人を打たず、人に打たれない」ための体術だと考えた沖縄の人たちの「手」は、わざと勝負に負けても、相互が心身ともに傷つくのを阻止することで、評価される。どちらが正しく、間違いだというのではない。理解の違いを指摘しているつもりである。

「強 者」、「弱者」間の階級闘争と経済的帝国による植民地政策が弱き国の労働を搾取して、グローヴアリゼーションという経済機構が想定され始めた現代では、中 央集権の権力支配者がローカル(地域機関)を犠牲にしないように、その独自な特殊性を保護しようとする意識が評価される時代になった。

 琉球で育成された自己保全の感覚は、現代の世界に必然欠くべからずの、思想ではなかったか。

この思想はどこから始まったのだろうか。

「彷 徨えるユダヤ人」のことばで知られる、ヘブライ民族の古代北イスラエル王国は紀元前七百二十一年、南のユダ王国は同五百八十六年にアッシリアと新バビロニ アに侵攻されて捕囚の民になった。その後解放されたものの、その多くがヘレニズム諸国を変転と移動する移民となって、異国に寄生する共同体をつくりあげた が、これがデアスポラである。デアスポラとは、母国を離れて異国にすむ少数民族が背景にした社会的環境でもある。

デアスポラという社会的空間に生息するもののには、基本的な人権と自由がない。自分を含めて、家族員の生命を守るために武器を所持することは許されない。為政者に従属しないものは処罰される。奴隷にひとしい。

 沖 縄はかって琉球という王国だった。ところが一六〇九年薩摩藩の島津氏の侵攻を受け、敗れて首里城は開城させられる。それ以後、独立国家とはいいながら、明 の冊封国、薩摩藩の付庸国という他国の為政に従属しなければならなかった。言語文化はもとより日常生活の慣習を他国に学び、自己のアイデンテテイを細々と 守ると言うダブルスタンダードの精神生活を送った。

 武器を備えることは違法となるから、徒手空拳の体術を考案して身を守るほかなかった。カラテは琉球の島民が考案した、デイアスポラ文化思想の結晶だったとぼくは学生に説いててきた。自分の住む先祖伝来の生地が、植民地化された結果、異人種またはホーストの国体の政権に従うという特異な環境で、自己の文化、人権を永続させていく為の WAY OF LIFE これもまた、カラテを習得することの応用であり、それを修練する魅力となりうる。

 ヤマト政府は一八七一年、廃藩置県を実施するに当たって、琉球王国の領土を鹿児島県の管轄、翌年はこれを琉球藩、そして一八七九年には沖縄県とした。これが琉球処分である。ちなみに明治政府による国民皆兵を目指す徴兵令が発布されたのが一八七三年。当然、沖縄県民は日本帝国民として同制度を義務付けられた。

 那覇手、首里手の創始者といわれる先覚者がこぞって中国福県省、福州にわたり、中国拳法の各派を研修したという時代と重なるのは決して偶然ではない。お仕着せのヤマトん衆の兵役に服することが如何に不条理なることか一目瞭然であろう。

 ぼ く個人の話で恐縮だが、渡米後結婚して、アメリカの永住権をもらってから、一番怖かったのは、いつ何時、米国合衆国政府から徴兵令がくるかもしれないこと だった。渡米したときが二十九才、さすがに歳をとりすぎていることが幸いして、徴兵はまぬかれたが、訪問中の異国の地で兵役に従事しなければならない制度 はいただきかねた。ヴェトナム戦役の泥沼にもがいたころの米国である。いくらお世話になっているアメリカの為とはいえ、ベトナムくんだりまで死にに行くつ もりがあるわけがない。

 沖縄手では自由組手の稽古を許さなかった。一拳必殺を目標に技を磨くのであれば、組み手は剣の試し切りと同様、邪道に等しい。突き、蹴りの威力を意識的に緩和して、適当に実戦をまねて技を試してみようと考えたのは乱取りを競技化してみたくなったヤマトん衆である。

 関 西、関東の大学でカラテ部の学生が好んで始めた自由組み手のコンテストは、幸か不幸か、マッカーサー司令部思想課のパージを受けた各種の武道団体が解散を命じ られたとき、カラテは徒手空拳のスポーツだからというので、競技運動に体質を変えることで、存続することがゆるされた。皮肉な話である。

 終戦直後、マッカーサー元帥は武徳会という武道の「制度」も解体した。日本帝国の侵略政策なるものの思想的な元凶と解釈された為である。その結果、旧武徳会傘下の弓道、剣道、柔道という武道組織団体はその存続を目指して、斯道の体質をスポーツ化することで存続を申請しなければならなかった。カラテに「実践組み手」の練習を取り入れて、柔道、剣道を見習いながら競技化するという考えは、当時、新鮮な「体質改善」案として普及し始めていた。「寸止 め」の技術を強調して、防具を着用しない「試合規定が」考案され、流派別の選手権大会が挙行されはじまる。一九五〇年に入ると、大学間の対校試合、さらに は流派間の交換稽古が相次ぎ、やがて任意の学生連盟が結成され定期的な関西、関東、そして全国の選手権大会も実現した。

 真剣勝負という体質で発祥したカラテが、試合規定というルールを標準化してスポーツの体質に改善されることで、グローバルにされると、同スポーツの人口が急激に増大した。しかし、その結果、カラテ本来のアイデンテテイに危機をもたらせたものの、西洋諸国での普及を鑑みるならば、デメリットではなかったのかもしれない。

 ユダヤ民族のアイデンテテイとして温床されたユダヤ教が、ローマ帝国の国教として制定されて以後、民族の境界なしにグローバル化されたキリスト教となることに似て興味深い。  

 フェンシングは西洋の剣術である。真剣を使わずに、剣の先に電流を流して相手の防具に当たると告示板に表示されて得点が視覚化される器具を使用することで、同スポーツを競技にしたのと同じように、カラテの競技化はそうやって始まった。武道家を任ずる指導員には嫌われたが、これも新たな魅力となって、カラテのマーケットを風靡することになる。

 最後にいまひとつ。文化圏の異なる、異国におけるカラテの人気は、禅、ヨガ、能、狂言という、異国情緒による知的な魅力も作用する。神道、仏教、キリスト教という外来の宗教が日本の文化史に及ぼした経過は、それが知識階級によって採用された傾向があったことである。神道と天皇家、仏教と皇族、キリスト教とインテリゲンチャの結びつきはアメリカ合衆国の60年代の若者達が日本の郷土文化に異常な興味を抱いたことに繋がる。

 ぼくのカラテのクラスに英米文学科、演劇科、モダンダンス科の教授達が沢山聴講していた時代があった。  

 

 

第3章:エトス考

カラテを指導する者の魅力

資格承認(レコグニッション)とカリズマの狭間

 

 

   カラテを教える指導員はまず暴力を否定する者でなければならない。さもなくば、気違いに刃物を持たせることに等しく、腕力を持つことの責任を自覚することができない。すなはち、カラテという体術を熟練するだけでなく、熟練する課程の途上で、特技を身につけることが、自己のエゴイズムを甘やかし、「力の濫用」という心理学的な弊害を招くリスクを自覚することが肝要なのである。それが、体技をマスターするということの基本的な認識となる。同体術を実行に移すことのタイミング、さらには決断力は自分自身の判断でまかない、他のものの指示には、いっさい、猶予を与えないという克己心を養わなければならない。それが、人を傷つける可能性のある体技を持つものが持つべき責任感とも言えよう。

 テクニックを理論的に紹介できる能力も重要である。西洋には理論的知識を第一義にする為、これをコーチする指導員の実技である、Performing Knowledge が職業的なレベルに達していなくとも、スポーツ競技のコーチをすることができる。カラテに関する限り、ぼくは、指導員の現役時代の実技が師範をするものとしてのレベルに達したものが好ましいと思っている。

 例えば水泳である。自分では泳げなくても、泳ぐ理論を習得すれば、人に泳ぎを教えることができるかもしれない。しかし、カラテはその業を習うだけでは、指導員にはなれない。その業を使うことで経験する、心理学的、運動学的な臨場感によってのみ習得でき学習に欠けるからである。

 速い話が、ひとをなぐれば、自分のこぶしも痛むことを知らなければならないということである。

 武道のカテゴリーに組み入れられた日本伝統の斯道の多くが、段位制を採用している。帯を道着に使用する斯道では白帯、黒帯の別がある。この資格承認の段位制はその基準が千差万別で価値評価に一貫性がない。客観的、科学的な資格とはなり得ない次第である。この基準は日本国独自の無形文化財に残された序列の体系で、琉球文化にはなかったものである。たまたま、日本国の文化に採用されたが故に押し付けられた、お仕着せなる資格制度である。木綿の帯が手垢で黒くなってこその黒帯で、染色材を用いて染めた一夜ずけの黒帯には実質的な裏打ちはありえない。カラテから段級制度がなくなるのは時間の問題であろう。

 ぼくは山口剛玄の長子に生まれた。琉球の那覇で発祥し温床されていた「手」の開祖、東恩納寛量の直弟子、宮城長順に師事、京都の立命館大学に剛柔流空手部を創立して、日本国内に斯道最初の全国組織、全日本空手道剛柔会を主宰したことで知られる。

 父、剛玄は国外でも、THE CAT の名前で知られていたおかげで、米国のカラテ界でも知名度が高く、その頃、サンフランシスコ州立大学の武道部でカラテ・クラブを組織していた舎弟、山口剛仙の招待で同クラブを担当、同時に同大学のフジカル・エジュケーションに、カラテの正課を創立させてもらえた。

 おやじの七光りと、弟の三光半のおかげで、現在の職と経歴にあやかったのは幸運だったとおもう。他の日本からの指導員のかたがたは職場を自らの手で開墾するというもっとも厳しい業をなしとげてこられた。一方、ぼくは、据え膳をあてがわれて、きれいに準備のできた席に座らせてもらうことができたのであるから。

 国を出でて外国文化の中でカラテを教えるという経歴に従事するに当たって、幸運だったのは、学生時代、拓殖大学にて二年程、同大学空手部で松涛館流系の練習を経験させてもらったことである。当時、日本協会初代主席師範の中山正敏氏、同空手部卒業生の西山英俊氏、同現役の森正隆氏、金澤弘和氏に直接師事を受ける機会があったことだろう。あの当時はまだ学生、流派別の選手権大会が挙行されはじまる、一九五〇年代のころで、流派合同の全国の選手権大会が始まる前、大学間の対校試合、流派間の交換稽古が、やがて各種の学生連盟、定期的な関西、関東で試験的に挙行され始めた頃のことである。

 戦後の復興途上、流派の壁を取り壊して日本国伝統の武道を中央集権的に解体、一本化して体育協会参加の団体にして国体への参加、さらにはオリンピック種目として採用されることを目標にすることが理想像だった。体質改善の必要性が各流派、ローカルの郷土で養われたユニークな練習、体系、形を抹殺し、軽視することになり、各道場が持っていた特質、質の豊かさが色あせていくのに気がつかなかった。練習は簡素になり、形の演武と組み手の競技化が優先され、競技に勝つことのスポーツマンシップに偏向して、本来のカラテの本質から遠ざかる結果となる。

 空手の競技化がいけなかったというのではない。西洋のスポーツマンシップを習得することは、確かに体術の視覚を広める。しかし、視覚は多角なままに保持してしかるべきで、勝ち負けのコンテストにばかり集中すると、その文化財の本質が単純になり、特質ある多様性が失われることになる。文化はそれを媒介する人間同様に生き物である。時代の様相に従って変化する。しかし変化するのは見かけの外観なのであって、本質は変わらない筈なのだから。

 ぼくは学生にカラテの本質を説明するとき、学生が日本人なら、「らっきょう」、西洋人ならば「たまねぎ」にたとえて教える。「らっきょう」も「たまねぎ」も梅干しの種みたいな核芯を持っていない。皮の一枚一枚が本質をなしているのである。勝負を競技化するカラテも皮の一枚である。しかし、それが全てではないのだ。

 剛柔会の開祖の長男ということで、ぼくは、物心がつく年頃から、今では伝説化された先人達の膝の上でカラテを習ってきた。小学校に通う頃には、基本的な形、組み手、その応用を嗜んできた。琉球でのカラテは実践組み手を許さなかったと書いた。そのフリーの組み手を考案、立命館大学のカラテ部で教え、普及させたのが、父、剛玄だったと言われる。昭和初年の頃の話である。その組み手は、間合いが近く、「喧嘩組み手」とも言われていた。

 当然、関東でも、松濤館、和道流傘下の大学のカラテ部の学生達がフリーの組み手を始めるにいたっていた。しかし、その段階では、いずれの「自由組み手」にも独自性があり、使われる業、間あいに歴然とした相違があった。例えば、拓殖大の空手部の自由組ては「一本組み手」を想定したもので、間合いが、剛柔流とは全く違い、剣道、フェンシングみたいに距離を置いていた。ぼくが好運だったのは、その全くちがう「自由組手」の実践を父の道場と拓殖大学で同時に習ったことである。

 あるスポーツを競技の体系にする為には、勝ち負けを規定するルールを規定しなければならない。 ぼくの父の時代では、組み手の練習が勝ち負けを決める練習でなく、実戦を仮想して、形に残された業を組み合わせそれを応用する経験でもあった。得点となる有効業の種類、タイミング、衝撃、速度などを規定することに始まって、寸止めの絶対性を全うすることが如何に困難なことかを経験した。審判員を訓練する段階で、各流の指導員は四苦八苦の暗中模索に明け暮れたものである。

  おなじ、正拳突き、前蹴り、横蹴りという呼び名であっても、その業の実践は各流各派によって、かなりの違いがあり、当然その由来、理論は相互に雲泥の違いがあった。その体質の違う技を習得してきた学生達を、ルールにあわせてコンテストに参加させようとする動機を再検討するべきだったのだが、時既に遅かった。

 体協に公認される為に各派が一本化になり、有効業の種類を択一的に選定することの矛盾、困難さは、一日も速く大同団結を成し遂げて、全国単位の選手権大会、さらにはこれを、オリンピック種目として登録せんとする、政治的、社会的な軋轢で、無視されたのは誠に遺憾ではあった。時間がなかったのである。

 19646月、東京オリンピック開催を目の前にして、ぼくは渡米してきた。カラテを競技のスポーツ種目にして文部省傘下の国体組織に統合するという、「錦の御旗」の複写を夢に抱いて、サンフランシスコで、AAU 傘下のカラテのクラブを統合、まずはカリフォルニア州の南北対抗戦をきっかけに、初の合同世界選手権大会を東京で、開催する為の米国選抜選手チーム編成の為、ロスアンゼルスの大島劼氏、出村文雄氏ともども集会を重ね、おっとり刀で協賛したこともあった。カラテをオリンピックの種目にするという目標が目の前にあったからだ。

 幸か不幸か、カラテは未だにオリンピックに入っていない。韓国系のテコンドウは既に参加しているというのにである。書きにくいことではあるが、正直にいう。テコンドウを羨む気持ちが全くないのである。それで良かったのではあるまいか。何故、カラテがオリンピックの種目に採用されなかったのか、理由はたくさんある。しかし、その理由なるものを呼び起こした原因そのものがカラテ本来の体質なのであって、一色のユニフォームには統括され得ない本質なのだと考える今日この頃である。

 「一拳必殺」という、穏やかではない心理を想定させる体技を解体して、競技の体技に作り直そうという思考そのものに無理があったのかもしれない。ぼくが主宰するアメリカでの道場や学校のクラブでは、組み手、形のコンテストを中止してから20年余になる。10代、20代の若者達にカラテを教えて、その競技に勝たせて喜ばせることが、あまりにも子供だましに思われるようになってしまった。The Karate Kid というなのハリウッドの映画を観て背筋が凍る思いをしたのはぼくだけではあるまい。

 ぼくは、仕事柄、毎日16kmを目標にジョギングするのを日課にしていた。サンフランシスコ恒例のマラソンにも毎年、参加して、23回、42.195 kmを完走して満足していたことがある。カラテの修練はマラソンの修練に似ているところがある。マラソンは一着になる為に走るのがレースの目標ではない。全行程を走り終わることである。だから、完走できたものはすべてが勝者なのである。二人の競技者がコンテストすれば、いずれかが勝者で他が敗者となるのとは、少し違うのではないだろうか。42kmプラスという距離を走り終える為には少なくても5ヶ月にも及ぶ規則正しい訓練が必要となる。5ヶ月間、毎日走り続けるという訓練の成果がレースなのであって、対抗する相手を敗者にして勝利を得るという感覚は全くない。ぼくはカラテをそういう風に教えてきた。

 素手、素足を当てあって打つ体技は、相手を憎み、倒す為のものではない。相手を助け、自分の動きをさらに効果的にする為に切磋琢磨することなのである。それは意思の交換、感情の抑制、タイミングの駆け引きというコムニケーションの実践に等しい。自分勝手に我が主張を相手に押し付けては、独り勝手で、決して両者の共有する権利の自由化にはならない。自由組み手は、二組のソーシャル・ダンスと全く等しいものである。

 終戦を経て迎えた20年間は、空手部を持つ各大学、クラブ、街道場は体質改善のパラダイム・シフトのおこる前夜祭ともあって、各道場の稽古は自由組み手が中心で、毎日血をみない程凄惨を極めた。敗戦という挫折感を屈辱的に味わった直後のころである。カラテの稽古はその敗北感を逃れる為のカタルシズムとなり、当然、暴力的になっていた。

 ぼくの父の道場には組み手の強い、一癖も二癖もある道場生がたむろしていた。「道場破り」まがいの訪問者もあり、来れば、「五体満足のままで返すな」などという、時代錯誤な感覚まで奨励され、高校を卒業する頃から父の師範代を勤めていたぼくは、正直言って、家業が好きになれなかった。学生の頃はカラテが嫌いで、学業を言い訳に毎晩の練習をさぼることに勤めていた。大学では文学部、英米文学科を専攻して、演劇や創作を書くことに興じていた次第である。

 当然、アメリカで自分の道場を経営して、日中は大学の教科を教える生活では、人種の異なる野菜サラダのような環境で日本国伝統の武道を教えることの価値の再認識をする必要があった。

 ぼくはカラテの教材に関する限り、それを教える資格はあるつもりではあったが、残念ながら、体育教育の資格を持っていなかった。大学卒業の学士号は持っていたが体育部科の終身教職資格がなく同科で、教授として職につくことができなかった。だから、本年を持って48年間の在職ながら、資格は万年の時間講師だった。

 もし、ぼくに、いますこし野心があれば、カラテを教材にして心理学科、人類学科、演劇学科、社会学科、言語学科の各学科と総合して、新規な比較文化学科も作れた筈なのだが、少し、悔いののこることではある。

 戦前、戦中の沖縄県立の小・中学校ではカラテは体育の正課だった。 ぼくはカラテは体育に限らず、教養、教育すべての課程に欠くことのできない教材であると信じて疑いない。前述のとうり、琉球には数百年に及ぶ、外来権力者の迫害のもとで生活するという歴史的経験を持つ文化がある。マイノリテイ、もしくは植民地で搾取待遇をうける原住の島民が権力者の圧政で人権を守るとき、カラテは若者達の心身的な鍛錬と啓蒙に役立つ理想的な教材なのである。

 その後、日本国伝統の武道に体系つけられて、グローバル化されたカラテを、琉球の郷土文化時代にさかのぼって、文化の復興となすという、ルネッサンス観をぼくが提唱してきた理由である。ポストコロニアリズム時代に生きるぼくたちの世代は、ローカルの固有の文化と人権を維持する為に、社会的、経済的な権力者による不平等や格差の克服から解放されなければならない使命を持っている。植民地主義の遺制による共同体に住むものたちは、支配者のもとで挫かずに生存することの必要性が要請される。権力者を倒す革命は「暴力」でしかあり得ない。階級闘争、異文化相克の社会で相反する仮想的を暴力で粛正するのは正しくない。その後に、自分が粛正される日が来るのが歴然としているからである。

 琉球で育成された「押忍」の思想はモハトマ・ガンジーの非暴力無抵抗主義を上回るものだったと思う。

 キリスト教徒文化社会では唯一神の創造主を主として、人間はその原罪を贖罪する為の「召使い」であるという相対関係を正当化してきた。「人間は罪深い」という、人間性の原罪観をぼくは信じない。日本には、人間の存在を肯定した感覚がある。  

山道を登りながら、こう考えた。
  に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安いところへ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世
よりもなお住みにくかろう。ーーー「草枕」
 

 夏目漱石の上の一文はぼくの世代の日本人ならば誰でも知っている。日本には規制された「人の心」を信ずる、「人の道」なる教えがある。ぼくは「人間性」をそのとうりに解釈してきた。カラテを教えながら、人間性を肯定してきたつもりである。漱石は詩と絵の世界を究極な場と想定した。ぼくはその詩と絵にカラテを加えて、アメリカ人の学生を教えてきた。ふと、気になって、名簿を調べると、過去、通算3万人に余る学生がぼくのクラスに登録していた。

 

 

 

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