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第三章

 

「人」の世と「神」の国

 神は薮蛇、人の原罪

 

 

「人間のすることだから、間違いは有るさ」と、言う言い方は、日本で良く使われる。間違いと言っても、単純な算数の計算の間違いに限らず、行いの間違いなど、人の犯す罪を含めて、間違いと言う。

 人の物を盗む事は悪い事であるが、つい出来心で人の物を盗んでしまうのが人間なのだと言う次第である。だからと言って、それを聴いて、慌てて家中の戸棚にカギを掛け始めたら叱られる。つまり、この言葉は、人間は間違いを犯す者であるから信用するなと言う警告ではなく、間違いを犯す人間性を認めて、その行いではなく、「人間」の心は信用すべきものであると言う、信念、或はタテマエみたいなものである。

 このメッセージを例の留学生に当てはめて弁護すれば、「成る程、図書館の本を破いたのは確かにいけない。しかし、本人は学業熱心さのあまり、悪い事とは知りながら、やむなくして犯してしまった、間違いではないか、はっきり悪かったと謝ってるものを、本国に送還してしまうとは何と冷酷な仕打ちだろう。西洋人は人間を知らないのか」とでも言う所だろう。

 「人間のする事だから間違いは有るさ」と言う表現は、此れは偶然かもしれないが、英語にも有る。ご存知だろう。

 "Nobody is perfect" である。

 「人間は完璧に有らず」と翻訳してしまうと、日本人は真意を誤解するかもしれない。意訳は「人間のする事なのだから、完璧であろう筈が無い」で、此れもタテマエで、西洋人の倫理的メッセージである。すなはち、間違いを犯したのが「ぼく」ならば、"I'm only human" 「ぼくは人間(なんだから)、間違いが有って当たり前」という、自己弁護に繋がる。此れもまた、日本語の場合と同じく、人間を擁護する言葉である。

 しかし、一見すると同じに見える、「人間」の定義に、日本の場合と西洋の場合に根本的な相違が有るようなのである。何故ならば、  "I'm only human" とは"I'm not God" と対句になるもので、その思想は"Nobody except God is perfect" 「完璧なのは神であり、人は誰も完璧にはなり得ない」と言っているのである。

 ジュウデオ クリスチャン モスレムは名前こそ違え、同一の「唯一神」を信奉、末梢の教訓や祭礼に違いは有っても、基本的には同じ律法に従っている。その神は全宇宙の創造主で、人間もその創造物のひとつであると言う。

 日本には幸か不幸か、そんな絶対的な神格はないから、ユダヤ教、キリスト教、回教徒が口にする「神を畏れる」と言う言葉をマトモに受け取る人はないだろう。日本人は「神」は敬うものと解釈、アリガタイ、慈悲深い仏様と混同して、「神が人間に加える試練」と言う旧約の神の行いも、「可愛い子には旅をさせる」と同じ意に解釈、(実は誤解)してしまう。盲目的な親の愛は、子の心身を虚弱にするから、心を鬼にして我が子に愛の鞭を打つべしと、教えるのが日本人で、そう言う親の心情は、実はアブラハムに向かって、息子を殺してみせよ、と試す「神」には全くない。

 モーゼがその「神」の申命(若しくは脅迫?)を受けて、エジプトからユダヤの民を脱出させる話は有名であるが、辛苦の果て、それを成し遂げたモーゼが犯した、たったひとつの過ちを許さず、「約束の地」カナンに入る事を禁ずる神にいたっては、心どころか正真正銘のオニみたいな神である。その過ちたるや、神のあまりにもキビシイ申命に疑問を頂いて口答えをしただけの事なのだから、オソロシイはなしでは有る。

「神を畏れる」とは、実は、そう言う恐ろしさの事で、ぼくから見れば、非道に思える神でも、背けば一生の破滅なるのだから、逃げも隠れも出来ない、絶体絶命の心境を思い知らされる。

 そういう神が本当に実存すると信ずるー或はそれを前提として日常生活が成り立っているのが、ジュウデオ クリスチャン モスレムの世界なのである。

 「サワラヌ神にタタリなし」と言う日本の格言は全く旨い事を言ったものだが、彼らはそういう神を "God is good" と是認して、自らの父とする事を契約しているのだから、この格言は受け入れられないだろう

 何故ならば、彼らは神の前から逃げも隠れもできない(神を畏れる)事を自認する事が信仰的な誓いであり、「神の名に誓って、、、」と言う言葉は、だから、日本人には理解できないほど重要な意味を持っている。人はゴマカセテモ、神はゴマカセラレナイと言う次第だろう。

 日本人にとっては、そんな神は薮の中の蛇の様なもので、ヤブさえたたなければ、タタリはないから、神無しでも、平気で生きていけるのである。

 日本の汎神論者は「日本人は無神論者だ」と言う。確かに其のとうりである。日本にはジュウデオ クリスチャン モスレムが信奉する、絶対、唯一の創造主、「God」は実存しない。

日本人を規制する信仰は、日本人の規定した、人の心の世界である。其の教えは一般に、「人の道」と呼ばれている。あくまでも規定された「人の心であるから」、西洋人の解釈する「生身(ナマミ)の人の心」とは違う。日本人は神を(本気で)畏れる事はない変わりに、普遍的に浄化された、日本人の心の観念に反する事を畏れる所為である。

 ぼくが例の御主人の前で手を付いて過ったのも、実は彼の別れた奥さんとぼくの間に行われた行為に過ちが有ったのを認めたからではなく、其の行いが御主人の心を傷付けた事実を認めたからで、其の心の救済を願ったがゆえである。謝る事が其の礼に適う、第一の作法である事を知っている事を実証しなければならない立場だったのだから。

 「日本人か」と誰何されたのは、(ぼくが)「日本人の」作法を知っているかいないか、試された事であるから、「日本人を」自認する限り、ぼくは正しく、其の作法を実演しなければならなかったのである。穴があれば入りたくなるほど、恥ずかしい経験では有ったが、居直って理屈を捏ねるよりも、非を認めて謝る方が、ぼく自身のの救済にもなったのである。

 理屈と言えば、日本には、「、、教」と言う名の教義が沢山有る。天皇家と共に渡来した「神教」をはじめ、「儒教」、「仏教」「キリスト教」等など、確かに有り難い教えでは有るが、いずれも過去二千年間に輸入された「新教」である。まさか日本人の精神生活がたかだか二千年間の短い歴史しか無いとは考えられないから、日本人の「心」の信仰は意外と古いのではないかと思う。

 本にいる通称、宗教家と呼ばれる、「神主さん」「お坊さん」、偉い「学者」の先生方達も、「人の道」にはずれることは許されないから、矢張り日本では「人」が「神」を優先している。 ぼくの母や叔父など、「人の道」を説く事そのものが、神の教えなのだと言う。

 もっとも、此ればかりは、西洋人の教育を受けたものに話す訳にはいかない。彼らが教えられた「人」は日本人の「人」と本質的に違うのだから、「人の道」を説くのが神の教えなのだと言おうものなら、神を侮辱するものとして、社会的に制裁されかねない。とは言うものの、此れをぼくの母や叔父に言っても絶対受け入れられまい。日本人は日本に住んでいる限り安全なのである。

ぼくは偶々、高校時代と大学時代を東京のあるミッシヨン スクールで過した。朝礼はチャペルの礼拝で始まり、讃美歌を唄い、聖書を朗読する生活に親しんだ。あまり真摯ではなかったが、教会にも通って、ヨハネ伝第三章十六節の「それ神は、其の独子を給うほどに世を愛したまえり」を暗記して、「洗礼」を受けた経験も有る。聖書は旧約、新約を再三通読して、アウト ラインだけは確実に把握している積もりである。

 日本では外来の宗教は、特に解禁の後は若い知識階級のファッションになる事が有った。奈良時代の仏教がそうだし、儒教やキリスト教も其の例に洩れない。

 明治、大正文学を愛読したぼくは、有島武郎ではないが、西洋人、特に美しい女性の出入りする教会に憬れた。あまり知的ではないが、知的なお洒落みたいな物であった。

 お陰で、ジュウデオ クリスチャン モスレムの解釈する「人」の観念が日本人の考える「人」と違う事は知らされていたが、創世記に書かれた 「原罪(オリジナル シン)」 の警告を文字どうりに受け取っていなかった。

 尤も、「聖書」を教える牧師が日本人だったからかもしれないが、人間が罪深いのはエデンの園のアダムとイブが神の言いつけに背いて、禁断の木の実を食べて以来の事だと言うエピソードはそれがいけなかった事を是認して、悔い改めるならば立派な人間となり、昔犯した原罪なる物も、神によって許され、消滅するのだと言うのでは無いのである。悔い改める、悔い改めずに関わらず、其の原罪は永遠の刻印として残ると言うのだから、人間が罪から解放されて、自由になる日は絶対に来ないと言う事である。

 それだけではない。日本人の様に謝れば許されると言う「人」の概念は、皆無であるから、罪を犯さない完璧な人間になりましょうと言う、動機を抱く事は、それ自体が神を冒涜する罪深い人間の性であるのだから、人の過ちを正当化する日本人の考え方と根本的に相克せざるを得ない。

 もちろん日本人にだって、過って済まない間違いも有る。その時はどうするか。死んで謝れば良いのだ。本当に死ぬのが血生臭ければ、(本気で)死んだ積もりになって、それ相当の心を見せれば、(仮に被害者はウムと言わなくとも)世間が許してくれる。もちろん此れが習性化して、そう言う悲壮感を演じてみせると言う姑息な行為も生まれるが、その辺の判断は流石に日本人は良く訓練されている。

 一方、ジュウデオ クリスチャン モスレムにも、悔い改めれば救われると言う言葉が有る。しかし此れは、犯した罪が帳消しになると言うのではなく、罪を犯した行為は永遠の刻印として残るが、罪を悔う罪悪感から解放され、自由になれると言うのである。此れは難しい。神の言い付けに背いて、木の実を盗んだ事が悪かった事に気が付いた者には、なるほど、救済になるだろうが、そんな事実?が有った事など知る由も無い日本人に、原罪という罪を着せる段階を経て、何故、あらためて、其の罪悪感(ギルド) の救済を教わらなければならないのか。

 「知らぬが仏」と言う言葉があるではないか。ぼくだったら、そしてこの教えを本気で信心しなければならないのならば、ほっておいて呉れと言う所である。

 罪を犯すのが人間の性であるのだから、神の制裁に一身を託すと言う考え方は、一見、日本人の場合の死を決して詫びを入れる態度に似ている。根本的な違いは、人間は終生、更正できないと言う考え方だろう。

 見方を変えれば、人間は罪深きドレイの身であったのだから、飼主の神には絶対的に服従しなければならないと言う教訓みたいな物だ。

 日本人にはそういう思想は受け入れられないのではないだろうか。

 考えても見るがよい。仮に何百億万年の昔、銀河系外の宇宙から、「God」という名の 超高等知性生物(extraterrestrial being) が来訪した事が有ったとする。彼、或は彼らは、未曾有の知力と超能力(テレパシー) の持ち主で、原子核融合のテクノロジーを駆使して、恒星ををひとつと、此れを公転する九つ、(或は十個?)の惑星を創造した。そして、其の第三惑星を地球(テラ) と名ずけて、自分の姿に似せて、男をひとり造った。配偶者は男の肋骨から造られた女で、此れがアダムとイブである。「God」は二人が知的に成長する事を好まず、其の源泉となる木の実を食べる事を禁じた。禁断の掟が犯された時、二人は身に付けた知性ゆえ、羞恥心を知り、罪の意識を永遠に荷って、エデンの園を追われていくのである。

 少々、大人げの無い比喩で申し訳ないが、要はこの行いを「原罪」と称し、人間性を根本的に否定するのが、ジュウデオ クリスチャン モスレムの世界なのである。

 だから、「私は人間なのだから」という表現を西洋人が使う時、言っている人に罪の意識は有っても、悔恨の意図が(日本人の目には)ある様には見えない。

 「どうせ、あたしは、罪深い人間なのだから、間違いが有って、当然でしょう」と言う、甚だ不遜な態度にさえ思われる。

 さてそれならば、日本人が言う「人の道」とは、具体的にどんな「道」なのだろうか。「人の道」云々は大学の教授からソバヤの兄チャンに到るまで、口にする。しかし、いざいかなる「道」が有るのか、成文化する事になると、あまりにも膨大、(或は単純すぎて)箇条書きになる代物ではない。

 何故そうなるのか。これは、ぼくの独り合点になるかもしれないが、「人の道」とは人間の行いを規定する道ではなく、人と人の間に造られる道を装丁する教義だからなのではないだろうかと思う次第である。

 ひとは道によって結び合うものであり、その道が「情」であると言う信仰である。

 「情」は其の質と種類にしたがって、定義され、それを行う事(サービス)、受ける事(アクセプタンス)に当たっても、作法、又は礼儀が細かく規定される事になる。と、言う事は、情の道が行き来する「人」の存在が絶対的な前提であるから、人の行為そのものを規定する西洋の教義とは次元が異なり、日本人仏教徒、日本人クリスチャン、日本人マルキストの三者が一堂に会しても、衣を脱いで、(ハダカになって話し合えば)日本人としての、人間の対話が出来る仕組みが作られてあると言う事である。

 この仕組みの無い西洋の社会を知らなかったのが前章の留学生君の悲劇である。善悪の評価は人の作法ではなく、其の行為の内容にて決定される異郷で、彼が幾ら誠実なる人格を証明しようとしても、誠意が通じる筈が無く、ぼくと例の御主人との関係に於いては、日本人と言う名義で、両者に情の交流が存在している筈だからと言う、絶対的条件の為に、仮に彼氏の方に(西洋人の)理に背く行為が有ったとしても、ぼくの方では、日本人として其の礼を尽くさなければならぬ羽目に陥る事になる次第である。

 人と人との間に道を架設すると言えば、アメリカで芝生の校庭に道を作る方法が面白いので紹介してみる。ぼくの住んでいた頃の日本は、芝生は高価で、たいてい立ち入り禁止のフダが付いていたが、此方はゴルフ場みたいに人は遠慮なく芝生の上を歩きまわり、散歩したり、寝そべったり、フレスビーをして遊んだりする訳である。しかし土が柔らかすぎたり、露で靴が濡れたりして、歩行には不便なので、広い大学の校庭の様な所では、芝生の中に道を舗装する。その道を舗装する方法である。偶々、其の係りをしていたのがぼくの教え子で、教えてくれたのでは有るが、先ず芝生を植え込んで、道は作らず、数ヶ月ほど其のままにしておくのだそうだ。

 すると、学生や職員達は自由に芝生の上を歩いて、校舎の間を往復する事になるから、日が経つに連れて、人々が頻繁に歩く所の芝生が踏み固まって、自然の小道が出来ると言うのである。其処にブルトーザーを入れて、コール タールを流し込んで舗装すれば良い訳である。

 ぼくが面白いと思ったのは、その道の作り方が、日本人の人の道の作り方に似ているように思われるからである。

 其の前に西洋の場合だが、アブラハムやモーゼがヤハウエと行った契約、累々百ページにも及ぶ律法が、キリスト、モスレム教の信仰にも採用されているから、西洋人の精神生活は、実に、過去数千年間、一冊の本の戒律によって律しされてきたとも言える。すなはち、道は時間的、空間的な次元を超越して、唯一つであり、それは神との契約に則っていなければならないと言う、絶対性である。

 一方、日本の場合はそんな契約を交わしたと言う歴史観が無いから、人は自らの意思と労力を費して我が道を造り、精神生活の場を共作して来たのではあるまいか。

 つまり、ぼくの母や、叔父の直感は微妙な所で的を射ている次第で、神への道が、「人の道」のひとつであっても構わず、その道が「情」によって装備されていれば、それで良いのだから、「人の道」を説く人たちは、自分の歩いている道、或は人々が足繁く通う道を、美しく、歩きやすく、舗装して世間に紹介すれば良かったのだと思う。

 もちろん、その道が、異郷の借り物の理屈であるかもしれない。それは芝生の中に、新たな人踏の跡が出来るのと同じだから、其処を新装して、人の歩かなくなった道は旧道と称して、其の侭残しておけば良い訳である。

 それでは何故、「日本人には通用しない筈の借り物の理屈」や、「日本人には受け入れられない筈の思想」までが、日本人の世界に共存できるのだろうか。 実はそれが出来るのが、日本人の生活の知恵、或は美徳にも繋がるのであろうが、それが出来るように、厳格な礼儀の作法が取り決められていると言う事で、日本人は子供の頃から、其の作法に従って訓練させられている訳である。例えば、「ハイ」と「ゴメンナサイ」を無条件に連発するのも、其の訓練の成果かもしれない。

 「道」は「情」が伝達される為の「施設(facilities)」、つまりは、血液を運搬する血管でしかないのだから、理屈は仮にそれが明瞭な「教え」であったとしても、所詮は心情を通達させる、 言葉の拡声器(audio transmission) である。「教え」の内容の違い、仮に「教え」が矛盾しあい、相剋する事があっても、拡声器としての性能を変更する事は許されない。と言う事は、身中にある異質の「性」が血管を破壊する事はないのだから、浄土宗を信仰するある日本人が、カトリックの教会で、結婚式を挙げても良く、本質の体系を壊す恐れはないと言う事である。

 要はトランスミッシヨンの「性能」である。心と心の触れ合いを終局的な目的とする世界では、「我」が心が、「彼」の心を傷付けることが罪となるから、伝達する「思想」が彼を

傷付けないように、必要と有れば、その「思想」の内容を修正して伝えるほどの「性能」を備えている。

 もちろん西洋人だって嘘を付く、しかし彼らが嘘を付くのは、自分を守る為であり、日本人が嘘を付くのは、自分以外の者が傷つかないように守る為である。

 誤解が有るといけないから、云い方を代えて説明するならば、西洋で嘘を付いても許されるのは、ウソをついた当人自身、或は其の身内、友人を守る為だった場合。一方、日本では其のウソが、当人の為ではなくして、他人を守る為だった場合に正当化する事が許されるのである。

 では其の性能、つまり、心情を伝達する為の「作法」である。

 此処にひとり、肺ガンの男がいる。もちろん、本人は知らされていない。医師は当人には内密に、近親者にのみ通告しても許されるし、近親者はウソを付いてでも其の事実を、当人から隠匿する事が許される。そういう世界が存在するのは、其の世界に「礼」「作法」と言う規律が有るからであり、事実を伝える、あるいは事実を知ると言う、西洋の世界の権利は、其の規律を守ると言う行いに優先しない。

 当然、「礼」「作法」を守る行いと、事実を隠す行いとの間に気持ちの相克が起こる。其の相克を類型化して、相剋故に涙を流す事で、西洋人の考える「責任感」を回避できるのは、そこに「浪花節」の世界が有るからだろう。

 さては、ぼくは、「浪花節」を批判しているなと思われては困るので、弁解させてもらうが、日本人にとっては、「浪花節」の通じない、西洋の世界は、水の無い砂漠みたいな物で、住み難いのである。

 ぼくの息子の様に、ぼくの「親心」を、日本人の人情話の形(パターン)にハメて表現しようとするぼくの態度の背景を知らない者は、ぼくの高ぶった感情を取り扱いかねて、相互の仲はイタズラに白ケルばかりと言う結果になる。

 ソレハそうだろう。ここは「甘える」と言う言葉の無い国だから、ぼくの使う 言葉(セリフ) の意味は話半分に聞いてくれて、(オヤジのそういう気持ちだけを有り難く頂いて)あとは、甘えてくれればそれで良いのだと言う、経緯の説明が出来ないのである。

 日本にいる時は、「浪花節」や「演歌」を鼻の先で笑った物だった。思えば幸せな時代だった。「情」の世界にドップリ漬かっていたからこそ、嘲笑してみせる事も出来たのだが、人に甘える事の許されない、自主主義を信奉するアメリカに住むに当たって、「情」の通用しない人の世界を知り、改めて、自分が捨ててきた世界の美しさを思い起こす次第となる。

 能、狂言がアメリカで殊のほか、好評を受けている作今である。しかし歌舞伎に今一つ人気が集まらないのは、所帯がおおきすぎて海外旅行が容易でないだけが理由ではないだろう。歌舞伎を支えている「人の心の世界」を形式化した思想を受け入れる体制が、この国に未だ出来ていないのではないか。

 人を信用すると言う思想は、自分の進退を一切相手にたくして、其の真心に甘えてみせる事が出来る社会を築き上げる事を目的にしている。其の思想の究極に有るのが、幼児が母親の胸に抱かれている状態で、母親を信じて疑わない(幼児)の無心の心が、取りも直さず、甘えられた方の心を支える事になると解釈するのが日本人である。

 西洋人の社会で自分の主観をを引き渡して、そう言う人の信用の仕方をすると言う事は、自分の権利を放棄する事に通じるから、自殺行為となる。だから、自主に徹する事と、日本人みたいな、人の信用の仕方をする事の両者は、水と油の関係で、両立は先ず不可能である。

 もちろん西洋人も礼節を重んじ、人を尊重する。しかし、それは、あくまでも個人の生命、プライバシー、機会均衡の自由と権利が守られているかどうかを懸念するのであるから、日本人が云う「人を信用しろ」と言う意味ではない。

 彼らもまた人の真心を評価する。只其の真心を具象化する信仰は、皆無であるから、真心を求めながらも、それが実存する事を信じない。それは、日本人が天地神明に誓う神を求めながらも、其の実存を信じていない事と同じではないだろうか。

 さて、前章では日本には俺の物が無かったと書いた。ここまで書けば、ご賢察頂けると思うが、俺の物が無い所にありえないのが、 PRIVACY (プライバシー) であり、其の権利なのである。

 プライバシーと言う言葉だけは日本でも良く使われるが、プライバシーを徹底的に守りとうそうとする西洋人の感覚は、未だ分かっていないのではないだろうか。分かっていないと言うより、贅沢だ、我が侭だ、と非難する場合も有る事を考え合わせると、プライバシーに価値を認める考え方は、借り物の思想で、日本にはプライバシーに優先する他の価値が有り、両者の価値が相克する場合、プライバシー(の権利)は排斥されているような感じがする。

 其の前に、それではPRIVACY とはいったい、何者なのか。ぼくはぼくなりに、此処で考え直してみたいと思う。

 日本に住んでいる頃は、プライバシーとは簡単に「私生活」を意味する物であると解釈していた。それならば、英語には " a private life" と言う言葉が別に有る事を知った。と言う事は、個人或は私生活の基本になっている物をプライバシーと呼ぶ事になるのだろうが、形而上の問題を日本語(或は漢字)で説明しようとすると、禅問答みたいに、あまりにも主観的、抽象的になるので、少しクサクなって恐縮ではあるが、具体的な例を挙げて、ぼくの考えを聞いてもらいたい。

ぼくの観察した所では、平均的なアメリカ人は(男も女も)公衆で裸体を晒す事をすごく嫌がる。尤も「裸体主義者(NUDISTS)」 と言う特殊な例外になるグループも有るが、相手がこの国で生まれて、育ったものならば、「人の目に晒される事無く、すきなとき、裸体になっていられる空間」とでも云えば、大体其の感覚が伝わり、同意してもらえるが、相手が大衆浴場で、タオル一本を器用に扱って、前を隠す技量のある日本人にはやはり、ピント来ないかもしれない。

 強いて日本人にも其の感覚を分かってもらうには、例をいま少し極端にしなければなるまい。

 如何に団体生活に練達した日本人でも、人前で大便の出来るひとは少ないだろう。もし有る日本人に「人の目に晒される事無く、好きな時、(或は必要な時)に用を足す所」が用意されていなかったならば、其の人は、そう言う環境を不自由に思うばかりではなく、精神的、(もちろん肉体的)にも苦痛を味わう筈である。そういう苦痛を、味わないでも済まされる「場」或は「空間」をプライバシーと呼ぶのだと仮定してみる。

 一方、人の心を絶対視する日本人は、俺とお前の間に空間を作る事はいけないと言う精神的な観念がある。人間は全て、親子、兄弟(姉妹)の間柄であるべきなのだから、お互いの間の垣根を取り除いて「心」の疎通を図る事、人前で裸になって話し合える環境を造るのが、自分の潔白を実証する為の行為であると解釈する。

 それは、俺の物はお前の物、お前の物は俺の物、と言うドンブリの中の世界、(或は家族制度)の原則であるから、プライバシーと言う場を要求できる訳が無い。日本人は伝統的にプライバシーを拒絶してきたのである。

 さて、西洋人が俺の物を人と共有する例外がひとつだけある。それが、ジュウデオ クリスチャン モスレムの信仰の対象である唯一神である。

 キリスト教ひとつを取ってみても、旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)、旧教にもローマ正教とギリシャ正教、其のどちらにも関係しない、英国(国)教会。更に新教徒もなると、此れは両手では数え切れないほどの分派からなっている。

 信徒はそれぞれ自分の宗派の教会に所属する訳であるが、宗派や教会は違っても、神は唯一神で、全人類の神である。神はOur God であり、俺の物 My Godでも有るから、事神に関する限り、ドンブリの中の存在だ。だから西洋人も神の前に立つ時は、裸になってプライバシーを放棄する作法に従う。ドンブリと言う器はこの場合は(日本とは違って)教会と言う世界の事ではある。

 前章で「西洋で罪の自認が行われるのは特殊な環境の中での事、、、」とかいたが、この特殊な環境と言うのが、実は教会なのである。

 さて、クリスチャンの神と、教会と、人の関係であるが、非常に複雑である。ご存知の様に西洋の王権は教会無しでは成り立たず、其の歴史は正に、血を血で洗うような教会間の相克である。

 教会は神の礼拝堂、簡単に言って神殿である。其の神殿を祭る祭祀者が権力を持ち始め行政に口を挿むようになるのは、日本の「寺」見たいで皮肉な話であるが、西洋の場合、王家、王国の私的な争いですら(少なくとも表向きには)教会の名の許に行われ、其の権力争いに巻き込まれた善良な信徒や忠節な騎士、更には徹底的に搾取された農民の歴史は実に悲惨な物である。

 だから、西洋人の知識階級の間では、早くから、教会に対する批判や反感が芽生え始めたが、日本人であるぼくが理解に苦しみのは、(ぼくが知っている限り)、神そのものの存在を否定しようとする思想が、社会的に是認された事実が未だに無いと言う事である。

 実は日本人であるぼくが、この種の疑問を軽々しく問題にする事は、非常に無責任な事なのであるが、見方を変えれば日本人だからこそ、そして責任が無いからこそ、勝手な事が言える訳である。読者が(日本人である)貴方であるのを幸いに、ぼくの西洋人に対する  frustration を、この際思い切って聞いてもらいたい。

 アメリカのテネシー州で、実際起こった話で、Monkey Trial (お猿の裁判) と言う公判があった。ハリウッドがスペンサー トレイシーを主演にして、Inherit the Wind の題名で映画化したので、ご存知の方も多いと思うが、ある公立の高等学校の教師がダーウインの「種の起源」を教えた為、起訴されて、裁判にかけられたと言う話である。西暦一九二五年(大正十四年)の出来事である。其の州では州法でダーウインの例の人間の祖先は猿人であると言う学説を、公立の学校で教えてはいけない事になっていたのを、ジョン スクリップルと言う生物学の教師があえて授業中に教えた事が問題になったものである。

 ご存知の様にクリスチャンの中に fundamentalists と言う信者のグループが有り、聖書に書いてある話を一字一句なおざりにせず信じて、其の教えを守っている。

 旧約の創世紀に書かれたアダムとイブの逸話は既に触れたが、彼らは其の話を事実として解釈するから、人間が猿人から進化したと言うダーウイン説が神を冒涜するものであると考えた次第である。お陰でスクリップル先生は有罪になり金百jの罰金刑に処される。

 この話は今から七十年予前の事であるが、アメリカでは今でも此れに似たような話が起こる事がある。実はつい最近の新聞でもカルフォル二アの Board of Education (教育委員会) が同州の公立中学の生物の教科書二十種にダーウインの進化論が、意識的に削除されていることを指摘して、即時、改定するように要望した旨報道された。

 出版会社側としてはダーウインの進化論を教材に載せると Fundamentalists が煩いので、世論の反響を恐れて、なるべく印刷しないようにしていた訳であるが、太陽系の惑星にロケットを打ち上げる準備をしている国だと言うのに、ちょっと日本では考えられないような、アメリカの中世的(ダーク エイジ)な一面である。

 聖書の教えが其処まで徹していて、それを信奉するものの政治力が世論を左右するほど大きいと言う事であるが、そう言う社会でうっかり神の不在を説くと言う事がどれほど剣呑な事であるか分かってもらいたい。

 原子力時代でのアメリカですらこのとうりであるから、二、三世紀前のヨーロッパの頃を思うと、想像も出来ないのである。

 アメリカは絶対、唯一の神を信奉する各種各派の教会が共存する社会である。信仰の自由を伝統的にタテマエとするべき歴史的背景もある。

 さて、それでは、西洋の世界、特にアメリカに何故、個人主義と言う人間の自主性を主張する精神生活が生まれ、そしてそれが民主主義(デモクラシー)と言う政治的精神を築き上げたのか、章を改めて考えてみよう。

 

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